罪と罰日記 7月20日 まるでハリウッド映画 ドーニャの絶体絶命

 薄々気付いていたが、ドストエフスキー、意外にエンターテイナーである。

 確かにテンポは悪い(なんて、世界的名作に言っていいのか)。
 理屈っぽい。主人公はすぐ怒ったり憂鬱になったりして、全編暗い。
 
 しかし、犯罪者がその罪に気付いている予審判事と対決する「デスノート」のようなスリル。
 饒舌な予審判事のユーモラスと思えなくもない言葉が、次第に犯罪者の罪を暴き、その心をえぐる「刑事コロンボ」のようなカタルシス。
 主要人物の愛する人を得意顔で陥れようとする悪役の罠を、大勢の登場人物が見ている前で暴き立てる「池中玄太80キロ」のエピソードのような爽快感があったりする。

 実は「暗くて重くて退屈なドストエフスキー…」というイメージに隠された娯楽性があるように思う。

 今回はハリウッド映画である。

 スヴェドリガイロフは自分の罪を暴くつもりなのか、と怯えていたというかいきり立っていたというか、19世紀の逆ギレ男ラスコーリニコフは、スヴェドリガイロフ程度の小物が俺様のような大悪党と闘う玉ではなかった、などと自惚れたうかつな結論に達し、あろうことか何も解決したとは思えないまま別れてしまう。
 
 別れ際、いつものように物思いに耽ってしまったラスコーリニコフ、実は最愛の妹ドーニャが近くにいることにすら気付かない。
 まさにうかつ。全編うかつ。
 そうか、「罪と罰」って思想と哲学を抱えたラスコーリニコフのうかつさが作ったドラマかも。

 ともあれ、話しかけようか迷ったドーニャ。
 話しかけない。兄とすれ違う。すれ違いはドラマを生むよね。

 そんなドーニャを見つけたスヴェドリガイロフ。
 「お兄さんの秘密を教えてあげるから、うちにおいで」と芸のない誘拐犯のようなことを言う。
 あろうことかドーニャ、ついて行く。普通、行くか?

 スヴェドリガイロフの部屋は、ラスコーリニコフが愛するソーニャの部屋に隣接する。その壁越しにラスコーリニコフの告白を耳にしたことをスヴェドリガイロフはドーニャに説明する。
 そして、「あなたのお兄さんは盗みのために人を殺した」と暴露します。

 信じないドーニャ。兄はそんなことをする人じゃない。
 解説するスヴェドリガイロフ。お兄さんは道徳を超える理論を持っていた。ナポレオンのようにいくつかの悪を乗り越えていった事実に魅了された。しかし、残念ながら天才ではなかった。現代のロシア人には国土のように広漠として、空想的な、無秩序なものに憧れる人がいる。残念ながら優れた才能もないのに広漠としてしまう人がいる。あなたのお兄さんはまさにそれだ。

 兄に会いたい。ここを出して。訴えるドーニャ。
 お兄さんもあなたも救ってあげる。金も出す、パスポートも準備して国外脱出の手助けをする。だから愛してくれ。無茶を言うスヴェドリガイロフ。

 あたしを暴行する気?今更気付くドーニャ。
 鍵がかかっていてここからは出られない。脅かすスヴェドリガイロフ。

 卑劣感!叫ぶドーニャ。
 あくまで提案です。のるかそるかはあなた次第。暴行は醜悪です。できれば両親の呵責に耐えられないような事態は避けたい。お兄さんとお母さんを救うかは、あなたの返事次第ですよ。遠回しに強迫するスヴェドリガイロフ。

 二人の距離が短くなる。絶体絶命。どうするドーニャ?!
 
 「突然、彼女はポケットの中から拳銃を取り出した」

 「なるほどそういうことですか」ってスヴェドリガイロフ、納得するか?

 なぜ貧しい女性が拳銃を?いつ持ってたの?唐突じゃない?
 いや理屈はどうでもいい。
 B級ギャング映画のような展開に、むしろここでは快感を覚えたい。
 ドストエフスキーである。ロシア文学の最高峰である。
 しかも「罪と罰」である。感動したとか、深いとか、面白くなかったということさえ憚られるような巨作である。
 その一場面に、陳腐な米国映画のような場面があったとは。
 むしろ微笑ましいを通り越して、ささやかな感動さえ覚えないか。
 ドストエフスキー、実は読者をハラハラドキドキさせようとしているのである。

 一発目、打ち損なう。なんだ、こりゃ。
 二発目、装填する。また不発。距離縮まる。露文の名作でレイプ場面か?
 そして、三発目。
 ドーニャは拳銃を捨てる。
 「捨てた」と本当にスヴェドリガイロフは叫ぶ。ドーニャの腰に手を回すスヴェドリガイロフ。敬語を捨て「私を帰して」と怒鳴るドーニャ。「じゃ、愛していないんだね」今ごろ気付くスヴェドリガイロフ。
 
 「それで…愛せない?…いつまでも…」
 「いつまでも」

 卑劣で下品で醜悪なスヴェドリガイロフ。
 理由はわからないけれども、妻を失ってまでも恋するドーニャを求めてペテルブルグの街にやって来たのに。
 なぜかここで胸が詰まりました。愚かな、駄目なヤツがいてこそドラマはある。

 ドーニャを逃がし、3分以上も部屋に立ち尽くしたスヴェドリガイロフ。彼は拳銃を手に取り、街へと出て行くのでした。

 岩波文庫版301ページ。残すはあと103ページ。どうなるスヴェドリガイロフ。そしてラスコーリニコフ。

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