呼び名についての覚書 本題
2023/02/11
1. イエスは、ご自分の母・弟・妹たちが呼びに来た時、周りでイエスの教えに聴いていた人々をさして、「見なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。」と言われた。マタイ12章49節、他。
2.福音書・使徒の働きにおいて、イスラエルの同胞に対する呼称として、「兄弟」は多数使われている。
3.この呼称を、キリスト者は、異邦人にもつかう。
4.教会の歴史において「ブラザー」「シスター」の呼び名は、カトリックの一部敬称に使われる例や、「ブラザレン」などのプロテスタントセクトにも使われてきたように、重要なシンボルであってきた。
5.日本への宣教において、この名は「兄弟・姉妹」と訳されて、キリスト者となった人への呼び名に用いられるようになった。
6.しかし、この「ブラザー/シスター(ギリシャ語アデルフォス/アデルフェー)」と日本語「兄弟/姉妹」には、大きなずれがある。
① ブラザー/シスターは、兄/姉も弟/妹もひっくるめた語だが、日本語は「兄」か「弟」か、「姉」か「妹」か、どちらかを選ばなければならない概念を持つ。
② 「ブラザー/シスター」は親しみを込めた呼び方となっていても、日本語で「よぉ、きょうでぇ」と親しく呼び合うサブカルチャーは、きわめて限られているし、「姉妹」と呼ぶ関係はない。
③ 「兄/姉」か「弟/妹」を、厳密に区別する上下関係の日本語社会では、「兄」と呼ばせてもらう側は特権を感謝し、「弟」と呼んであげる側はマウントを取る優位性を有することになる。「親しさ」よりも「上下関係」への組み入れになる面がある。
7.教会の中で「兄」「姉」と呼ぶ関係に馴染んでいる文化はある。そこに、教会が持つ「神の家族」性を実感することがある。
8.しかし、教会の「兄姉」呼称のぎこちなさもいくつかある。
①文字においては、そもそも「兄」「姉」の読み方がハッキリしない。「きょうだい/しまい」か、「けい/し」か、「あに/あね」か、バラバラである。「兄」を「きょうだい」、「姉」を「しまい」とルビをふる事自体が、日本語と乖離している。
②年長者・目上の者に対する「兄姉」を一律に使い、「弟妹」を使わないのは、日本語の縦社会を持ち込んで、「失礼のないように」という配慮がないか。そこには、親しさよりも、日本の社会と上下関係を、教会にも持ち込むこと、言い換えれば、上下関係を引っ繰り返したキリストの謙卑に支配されるはずの教会が、日本の上下関係に支配されて骨抜きにされている実態、とさえ言えないか。
③だからこそ、「兄姉」と呼ぶ教会で、牧師は「兄姉」と呼ぶことは少なく、「先生・師」と呼ばれているのではないか。牧師に「○○きょうだい」と呼びかけることは失礼とされるだろう。教会の歴史では、教職者も「ブラザー」を呼んできたし、アメリカの教会では牧師がブラザー付けや、ファーストネーム・ニックネームで呼ばれることもあるのだが、それは日本ではまれである。
④洗礼を受けたキリスト者だけが「兄姉」と呼び合うのか、未信者も「兄姉」と呼ぶのか、教会によって、ハッキリしない。
⑤共同訳聖書では「きょうだい」と訳すことで、「兄弟」の日本語にはらむ問題を意識している。
⑥「キリスト新聞」「クリスチャン新聞」は、「さん」「氏」の敬称に統一するようになった。
ならば、いっそ「兄姉」より、「さん」づけで呼ぶ方が、スッキリする・・・という理由で、ぼくは「兄姉」より「さん」で呼ぶようにしているのです。
もちろん、他の人がどう呼ぶか、はその人の自由ですが…
そして、「私のことは、○○と呼んで欲しい」と、自分の望む呼び方をリクエストする、というのも、教会にあって良いのかも。
(人や場合によって使い分けも、リクエストに含めて良いでしょう。)
もし、あなたが「私のことは、兄/姉でも、弟/妹でも、父/母でも、息子/娘でも、好きなように思ってね」と言えたら・・・それこそ、聖書の「きょうだい」の意が伝わることなのかもしれません。