「博揮はどうしたい?」
ひろきです。
「博揮はどうしたい?」と聞かれると、咄嗟に、どんなアイデアがあるのかを問われているように捉えて困ってしまう自分。
(きっとあっこは、このアイキャッチ画像のようにワクワクしながら聞いているのだが。)
その困っている様子を見て、「あぁ、私と過ごすことを楽しみになんてしてないんだ」と捉えるあっこ。
自分の中に特にアイデアがないから、「特にない」と答え、相手からの「ないんだったら、私こんなふうにしようと思ってるからついてきて!」を待っている自分。
その「特にない」を聞いて、「あぁ、やっぱり一緒にいたいとも思ってないんだ。」と捉えるあっこ。
言葉が足りないことでものすごいすれ違いが起きていく。(もうそこには冒頭のにこにこしたアッコはいない)
なんなら、そもそもあっこは俺にアイデアなんて求めておらず、どんなふうに過ごせたら幸せだと思っているのかを問うているだけだったという。
そんなの俺だって最初からあっこと楽しく過ごせたらいいって思ってるだけ。でもあまりに当たり前すぎて言葉にもなっていない。
「どうしたい?」を、どこにいくとか何をするとかいうアイデアを問われているように感じてよくトラブルになるけど、ちゃんと今日もトラブルになって、楽しかった午前中から一転。。現在のような雨模様。
やれやれいくら学んだっていくら知識が増えたって、結局現場で自分の癖に気づき、相手の癖を知って、伝え方や選択を変えられなかったら、何も変わらない。
日々日々そのチャンスという名の挑戦の機会が目の前にあるのだ。
どうやら俺はまだまだとても制限の多い人間のようで、遠いからとか高いからとかいう理由で、咄嗟にやめておこう的なオーラを出しているらしい。
言葉に出さずとも、そういう負のオーラには敏感なあっこは、それを感じて咄嗟に自分の欲求を口にするのを諦めるらしい。
鈍感な俺は、怒りが爆発してからそんな想いがあることを知る。
何回このパターンを繰り返したかなあ。
前回は、「楽しむ」を忘れたらこうなることを学んだけど、今回は、相手の考えていることや思っていること、していることの動機に注目することの必要性が問われている感じだ。
相手は
なぜそんな問いをしたのだろう。
なぜそのアイデアを思いついたのだろう。
そこでどんなふうに過ごしたかったのだろう。
いいように解釈するのは、小さい頃、「あんたは本当に人の気持ちがわからないんだね。それ聞かなきゃダメ?」と半ば馬鹿にされる(と俺には記憶されている)ように母に言われて、それに怖気付いて、動機や心のうちを人に聞くことをやめた過去があったことを思い出した。
もうその時とは自分も相手も違うのだから、変わったっていいのにね。
まだまだおれはその傷を大事に育てているらしい。人のせいにできるそれがまだ便利だったんだなと自分の甘さにまた一つ気づいた。
昨日、友に買ったTシャツ。
同じ言葉を自分にも送ろう。
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