らくだメソッド1年の振り返り
らくだメソッドを始めて、1年が経過した。長かったような、短かったような奇妙な感慨を抱いている。
始めた時から、ずっと記録を取っていて最初の記録を見たら2015年11月17日だった。
読み返してみると、なぜかビクビクしている自分の姿が脳裏に浮かんだ。
1枚1枚をやるたびに、自分が目をそらしてきたものが明らかになるようで、あるいは覆っていた表皮が剥がされるような感覚があって恐れていたのだろう。記録の端々に「不安」という言葉が散らばっている。
肩肘張って、張り詰めた余裕のない文だ。
それに比べて最近の記録は、どこか客観的な視点から自分を見つめているような文章になっている。プリントをやる中で浮かび上がってくる感情と自分を切り離して、それを弄ぶように味わっている。同じ人間が書いているとはなかなか思えない。
それだけの変化が起こっているのだろう。
思えば、遠くまで来たものだ。
内容もわからないままに直感に従って、井上さん(※1)に初めて会った翌週にはもう体験を始めていた。がむしゃらにのめり込んで毎日やることで自尊心を満たしていた時期もあったし、1週間まるまるできなくなって平然としている時期もあった。
1つだけわかるのは、間違いなく肩の力は抜けてきている。
「こうでなければ」と自分で縛った鎖はだいぶほどけてきた。
色んなことに諦めがつくようになって、そしてそこからがスタートだと思えるようになった。
希望に満ち溢れているわけでなければ、絶望に暮れるのでもない。
事実を把握して、事実へと取り組んでいく。
淡々とやる。
そのことの意味が実感としてようやくわかってきたのかもしれない。
記録をとり、振り返りをする。
この枠組みは今の私の生活にとってなくてはならないものになった。
ヨガや日記、インタビューゲーム(※2)に至るまで様々な記録を取るようになった。記録の取りすぎて時間が足りなくなるくらいだ。けれど、そのおかげでより一層の気づきが私の中に芽生えるようになってきた。
「自分の変化をわかった気になる」ことと「自分の変化がわかる」ということの間に隔絶された高い壁があることを今ならばわかる。
自分の頭の中で理解する変化なんて幻想でしかなくて、事実から常に変化を見ていかなくてはいけない。体験のない実感なんてないのだ。
私はこのらくだメソッドをいつまで続けるのだろう?
最近、そんなことを思うようになってきた。
少なくとも高校全てが終わるまでは続くのだろう。そしてそれを終えた時に、私はどのようにプリント向き合おうとするのだろう?
全てを終えた時の自分がどんな選択をするのか楽しみだ。(2016年11月)
※1井上さん=寺子屋塾主催の井上淳之典さん。
※2インタビューゲーム=話し手と聴き手に分かれ、2人一組でインタビューをし合うコミュニケーションゲーム。僕は100人とやることを目指しています。(2018年2月時点で53人)
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「諦める」はどちらかといえばマイナスイメージの言葉だ。
そこに紐づいているのは挫折とか、絶望といった言葉だろう。
けれど、諦めることはそんなに悪いことじゃないと思うようになった。中途半端に「もしかしたら……」なんて不確かな希望に縋っていると、逆に身動きが取れなくなってしまう。それなら、もういっそ諦めてしまえばいい。
ただ、諦めたらそこで試合終了ではない。
絶望的な点差の開いたスポーツの試合だって、終了のホイッスルが鳴るまでは続くのだ。結果が見えてしまったとすれば、「そこからどうするか」を考え始めることができる。
諦めるというのは、次へ進むための必要なステップなのかもしれない。諦めた数だけまた次のひと・もの・できごとがやってくる。
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