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海外生活の記憶 米州2010’s 25 ワシントン州シアトル

シアトルの観光客が訪れることが多いパイクプレイスマーケットは日本人にとって縁の深いところです。戦前この市場に商品を出す農家の3分の2は日系農家だったそうです。シアトルには明治の終わり頃には日本人町もあって7000人を超える日本人が住んでいたそうです。中にはハワイがアメリカになったことで移って来た人も多かったようです。残念ながら第二次世界大戦で日系人が収容所に入れられ財産が没収された後はアジア街に変わってしまいました。

海に近いこともあって、近くには美味しいシーフードの店も並んでいます。

クラブ ポットは特に有名で茹でたカニをテーブルに直接乗せて木製のハンマーで叩き割って食べるのです。

一緒にトウモロコシとじゃがいも出て来ます。

そして今やシアトルのシンボルとも言えるスペースニードルは1962年のシアトル万博の際に出来たそうで、上の丸い部分に観覧回転レストランがありシアトル市内やマウントレーニアなどを一望出来ます。

スペースニードルがあるシアトルセンターまでモノレールで行くことも出来ますが、このモノレールは走行距離はたったの1マイルだけです。

そして水陸両用のこのバスは海と陸がとても身近なシアトルには最適な乗り物かも知れません。最近は日本でも各地にありますよね。

市内観光の後にいよいよ海に入ります。

シアトルは今でこそ、金持ちが住む素敵な街と言うイメージですが、シアトルのあるワシントン州は42番目の州で比較的開発が遅れていた地域です。18世紀末にイギリス人探検家ジョージ・バンクーバーが今のカナダからオレゴン州あたりを探検し地図を作ったと言われています。もちろん当時はインディアンは大勢住んでいました。深い森に包まれたシアトルは今とは全く違う景色だったようです。ヨーロッパ人の定住が始まったのは19世紀半ばでしたが、それから20世紀になるまで産業といえば森林の伐採による木材と毛皮の取引くらいでした。木材は主にゴールドラッシュで栄えたサンフランシスコに運ばれました。そもそも何故この地域がワシントン州と呼ばれるのでしょうか。

19世紀初めの頃は南のメキシコ領カリフォルニアと北のロシア領アラスカの間にあるこの地域にはアメリカ人とイギリス人が共同管理の状況でした。それがテキサス共和国の合衆国参加を契機に国境問題がより現実的な問題となり北緯49度を境に北はイギリス領、南はアメリカ領と決められました。(1846年オレゴン条約)この地域はもともとイギリス人がコロンビアと呼んでいた地域だったので北側はイギリス領であることを明確にする為にブリティッシュ・コロンビアと名付けられました。ただし南側はアメリカン・コロンビアではなくオレゴン準州とされました。地元ではオレゴンとは違うという意識が強かったのかアメリカ初代大統領にちなんでワシントンと呼んでいました。

1893年にグレート・ノーザン鉄道がミネソタ州セントポールとシアトルを結ぶ貨物鉄道として開通し1906年にはシアトル駅も完成すると日本との取引が大幅に増えて行きました。このころに日本人町が出来たのですね。シアトルはグレートノーザン鉄道を父、日本郵船を母として生まれたとも言われたそうです。時期は少しあとですが横浜にある氷川丸はシアトル航路の為に造られた船なのです。その後、2回の戦争を経てボーイングの航空機産業と造船業もシアトルやタコマの経済を支えて来ました。

シアトルの海辺の住宅地では家の中から直接ボートに乗れるような作りになっているところもあります。京都の伊根町みたいですね。

シアトルに本社のあったボーイング社はデトロイト生まれのウィリアム・ボーイングとシアトルの海軍技師ウェスターバレットが1916年に設立した会社です。ボーイング氏はドイツ系移民で材木会社社長としてシアトルを訪れた時、初めて飛行機を見てそれに惚れ込み自ら飛行機製造会社を作ってしまったのです。第1号機は水上飛行機だったようですが、第一次世界大戦のさなか練習機700機の注文を受け、一気に飛行機会社としての地位を築いたのです。戦後はバンクーバーとシアトルの間を飛ぶ国際郵便輸送会社を作り航空業に乗り出しました。その後の発展はめざましく大きくなりすぎた為、独占禁止法により航空輸送部門はユナイテッド航空として分離させられました。そしてシアトルの人口の3割はボーイング関係者と言われるまでになったのです。

ただし、航空機産業にも浮き沈みがあり2001年にはシカゴに本店を移すなど政治的配慮も怠らないようです。

一もうひとつのシアトル生まれの企業、マイクロソフトは語る必要もないくらい有名ですが、実はマイクロソフトの成長こそが今のシアトル発展の原動力になっているのです。1975年にシアトル生まれのビル・ゲイツとポール・アレンによって設立されたマイクロソフトは一気に大企業になったわけではありません。社内持株や何度かの増資の際に会社幹部・従業員などマイクロソフト株を持っていた人は、その後の株式公開で普通は手にすることのないような莫大な資金を手に入れることが出来たのです。退職時に売却した持ち株は数億円という人がざらにいたのです。彼らの中から起業家を支援したり、第二のマイクロソフトを狙って出資をするエンジェル投資家が生まれました。彼らこそが成功の種を育てアマゾンやスターバックス、タリーズコーヒーなどを産み育てたのです。最近ではIT産業も盛んでシリコンバレーに対抗してシリコンフォーレストと呼んだりしています。

気候はサンフランシスコよりもだいぶ北にありますが、温暖で住みやすいことではサンフランシスコ以上かも知れません。

そしてワインも内陸部のコロンビア・バレーではカリフォルニア・ワインに負けないコロンビア・ワインが作られているのです。

最後におまけですが、シアトルのマクドナルドには当時現役だったイチローさんだけでなく、2004年に引退した大魔王・佐々木さんまで、壁に飾ってくれていました。

シアトルの人は海に向かって扉を開き、人を受け入れ大事にするそんな素敵な人たちの住む街です。

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