海外生活の記憶 米州2010’s 4 リオデジャネイロ
リオデジャネイロは1960年にブラジリアが出来るまではブラジルの首都でした。しかも植民地時代の1808年にナポレオンに本国領土を奪われたポルトガル国王はリオデジャネイロに避難し、その後ブラジルが独立するまでの14年間は、ここがポルトガル・ブラジル連合王国の首都だったのです。
リオデジャネイロはサンパウロに追い越されたものの現在でもコパカバーナやイパネバなど有名なリゾート地があり、工業化も進んだ第二の都市です。下の写真は早朝まだ誰もいないコパカバーナの海岸です。その先にはボサノバで有名になったイパネバ海岸があります。海岸に沿ってビルが立ち並び、その後には高級住宅地や別荘地が整えられブラジルの中でも不動産価格の高さではピカイチです。
私が訪ねた頃は2014年のワールドカップ、2016年のオリンピックの開催が決まり、丘の中腹にはファベーラという貧民街があり、治安の悪さでも有名だったこの都市も再開発が始まるところでした。コパカバーナの海岸は下の写真の通りいつもは人でいっぱいです。
スペインとの新領土取り決めの条約にも拘らずブラジルだけはカブラルの新大陸発見以降、ポルトガルの領土として認められていました。1502年にポルトガル探検家のガスパール・デ・レモスがこの地に到達し、狭い湾を川と勘違いして、発見した月にちなんで1月の川(リオ・デ・ジャネイロ)と名付けられたそうです。17世紀までは砂糖やタバコを作る開発型植民地に過ぎなかったのですが、18世紀の前半に内陸部で金鉱が発見され、その金鉱とリオデジャネイロを結ぶ鉄道が出来るとリオデジャネイロは一気に繁栄し、ブラジル総督府もサルバドールからリオデジャネイロに移りました。そして本国から逃げてきた国王により1809年にポルトガル・ブラジル連合王国が宣言され、リオデジャネイロが首都となりました。ナポレオンの失脚もあり1821年に国王はポルトガルに戻り首都もリスボンになりますが、独立派は翌1822年ブラジルに残ったドン・ペドロ王子を担いでブラジルの独立を宣言します。ポルトガル人は人口が少なかったせいか国民性なのかわかりませんが、インディオや黒人奴隷との間に子供を沢山つくり、独立した頃の人口は380万人くらいですが、そのうち白人は3分の1、残りはインディオや黒人奴隷との混血だったそうです。今ではかなりの比率で混血というか、それがハイブリッドなブラジル人となっています。
コルコバードの丘の上には有名なキリスト像があります。これはブラジル独立100年を記念して1922年から作られ1931年に完成したもので世界遺産にも登録されています。
遠くに見えるポン・ジ・アスーカルという岩山にはケーブルカーで登ることが出来、山頂からは素晴らしい湾や町並みを眺めることが出来ます。
山頂からはいろいろな方向が眺められます。
この湾を川と間違えたのでしょうね。
ブラジルという名前は赤の染料を作る木(パウ・ブラジル)が来たそうでブラジルでこの染料の木が発見されるまではアジアからの輸入に頼っていました。当初、ブラジルとの関係はこの染料の交易が主体でいつの間にかブラジルと呼ばれた様ですが、木はすぐに伐採しつくしてしまい、砂糖やコーヒーと言った一次産業へと移って行きました。
第二次世界大戦後は開発政策や工業化の流れの中でサンパウロに人が集まり出し、1960年に内陸部に新しい首都ブラジリアが建設されたことでリオデジャネイロの地位は徐々に低下していくことになります。ただ、ペトロブラス(石油公社)やリオドセ(鉄鉱石公社)などの政府系企業はそのままリオデジャネイロにとどまったこともあり、工業都市として今でもサンパウロに次ぐ第二の工業都市です。
日本とブラジルの関係では移民が有名ですが、リオデジャネイロにいても西洋のリゾートの雰囲気が強く、サンパウロと違い余り日本を感じることはありません。日本人学校もその歴史は長いものの生徒数は10人前後と世界最少の日本人学校とも言われています。戦後しばらくして日本の商社により鉄鉱石の輸入が始まり、ブラジルの要請でウジミナス製鉄所も設立されました。そして今ではブラジルの鉄鉱石は豪州と並んで世界一の輸出国となりブラジル経済を支えているのです。
リオデジャネイロに居る間に飲んだお酒はカイピリーニャばかりでした。このカクテルはカサーシャと言う砂糖きびから作ったお酒とライムで作ります。このカサーシャは古くから飲まれていたお酒でブラジルの独立の際に乾杯はポルトガルのワインではなく、カサーシャでやろうと言うことで、今でもカサーシャやカイピリーニャが愛され続けているのです。
飲みやすいのでつい飲み過ぎてしまいます。
サウージ!
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