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海外生活の記憶 米州2010’s 8 アルゼンチン

アルゼンチンで思いつくのはアルゼンチン・タンゴ、パンパと呼ばれる大草原と牛、債務不履行国、サッカーの好きな人にとってはもちろんマラドーナやメッシでしょう。昔は大国だったというイメージもあります。実はアルゼンチンは新大陸の開拓という意味では後進国なのです。スペインの侵略はペルーからボリビア、パラグアイと進みアルゼンチン西部にと金銀収奪が進んでいったのですが、それより東には余り鉱物資源はなかったのです。

下の写真はカサ・ロサーダと呼ばれる大統領府です。その前の広場は1810年5月から始まった独立戦争を記念して5月広場と呼ばれています。しかし、その後もスペインとの戦い、西部地域と東部地域の内戦やブエノスアイレス州の独立など国の形は定まらず、隣国ブラジルとの戦争、ペルー・ボリビア連合との戦いを経験するなど不安定な時期が長く続きます。

ブエノスアイレスで海に出るラプラタ川とういう大河はスペイン語で銀の川という意味ですし、アルゼンチンという国の名前さえラテン語の銀という意味にも拘らずこの国の大草原に銀はなかったのです。

上の写真はブエノスアイレス港ですが、大きなラプラタ川の向こう側はもうウルグアイです。ブラジルとの戦争の結果、緩衝地帯のようにウルグアイが独立したのですね。

街は発展していた往時を今に伝えます。私は勝手にブエノスアイレス港を中心にパンパで育った牛肉をヨーロッパに輸出することで発展して来た国だと思っていました。それ自体は間違っていないのですが、時期は大きく違っていました。アルゼンチンが牛肉を輸出し始めたのは1877年にイギリスで冷凍船が発明されてからのことだったのです。そしてアルゼンチンがイギリスの後押しで国として正式に独立するのは1880年と他の南米諸国よりだいぶ遅いのです。そこから牛肉の輸出一本で第一次世界大戦のあとには一気に世界第5位の大国に上り詰めるのです。

このころにはイタリアを中心にヨーロッパ大陸から沢山の移民がブエノスアイレスに入って来て農場経営者や農場労働者になっていくのです。アルゼンチンに白人が多いのもそんな歴史があるからです。落ち目のスペインから離れてイギリスの保護により発展したとも言えます。でもそのツケで今だにフォークランド諸島はイギリス領のままです。

下の写真はメトロポリタン大聖堂です。

繁栄していた往時はブエノスアイレスは南米のパリと呼ばれたそうです。確かにそんな雰囲気がありますね。

コロン劇場では演劇や音楽演奏が行われ文化水準も一気に高まりました。

墓地もおしゃれです。

アルゼンチン・タンゴはイベリア半島の舞曲が1880年頃にブエノスアイレスに伝わり、楽団を含めて大きく発展したと言われています。私の行ったアルゼンチン・タンゴを見せてくれるレストランも連日満員という感じでした。タンゴだけは他のスペイン舞曲と違い、タキシードを来て楽団の演奏と共に踊るのはイギリスやヨーロッパ各地の影響があったのだと思います。

街では路面電車やタクシーも綺麗でオシャレです。

でもアルゼンチンはまだまだ治安も悪いし、貧しい地域も多いのです。ボカ地区というところにはカラフルなカミニートという通りがあります。ボカと言えばサッカーの高原選手が所属していたボカ・ジュニアーズというサッカークラブでも有名です。

カミニートと言うタンゴの楽曲があります。この通りを歌ったのか、タンゴの楽曲から通りの名前になったのかはわからないそうです。

アルゼンチン出身のローマ法王がお出迎えです。

そうそうアルゼンチン・タンゴはここボカ地区が発祥の地と言われています。

何故こんな豊かな国が度々債務不履行を起こす問題国なのか不思議です。ひとつだけ、現地でヒントとなる面白いことを聞きました。日本では2010年当時チリワインがだいぶ入って来ていましたが、実はアルゼンチンワインの方が格段に美味しいというのです。チリはドイツ移民が主流で、南米にしては比較的堅実な人が多く、ワインも輸出産業として積極的に売り込んでいますが、アルゼンチンではこんな美味しいワインはアルゼンチン人が飲むべきで輸出なんてとんでもないというのです。な〜るほどと妙に納得してしまいました。現地で飲んだ赤ワイン、マルベックは本当に美味しかったです。



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