海外生活の記憶 欧州2000’s 35 ナポリ
ナポリは紀元前6世紀頃にギリシャ人がやって来て作った都市らしいです。その後はもちろんローマ帝国に属し、5世紀に西ローマ帝国が滅びると東ゴート族やランゴバルド族などに荒らされますが、6世紀に東ローマ帝国が取り返し、ナポリ公国となります。11世紀になるとノルマン人が南部イタリアに進出し、イスラム勢力が支配していたシチリア島を占拠しシチリア王国を作ると共にナポリもその勢力に治めることになります。ここからナポリを含むシチリア王国の歴史が始まります。
下の写真がノルマン人が城の基礎に卵を埋め込み、この城が壊れる時はナポリも滅びると呪いをかけたと言われる有名な 卵城 です。
ナポリに到着した日は残念ながら雨模様で青の洞窟が見られるかわからない状況でした。サンタ・ルチア港もどんよりしていてあの歌の明るさは全くありません。特にこの時期は市役所のストライキでゴミが収集されず、至るところに山積みされ、イタリアのイメージが全て変わってしまうくらいひどい状況です。
12世紀になるとノルマン人の支配から婚姻に伴い神聖ローマ帝国の支配に代わり13世紀にはフランス王族アンジューが教皇の後押しによりシチリア王となります。しかし1282年に住民の反乱とアラゴン王(バルセロナ家)のシチリア島占領によりアンジュー朝は半島のナポリに移ります。これがナポリ王国の始まりとも言えますが、何故か共にシチリア王を名乗ります。下の写真が1284年に建てられたヌウォーヴォ城です。
(ヌウォーヴォ城の参考写真)
15世紀に入るとアラゴン・シチリア王は更にナポリ王国を征服し、二つのシチリア王国を支配します。フランス・ヴァロワ朝も一旦、ナポリを取り返しますが、アラゴンとカスティーリャが婚姻で統一されたスペイン王国は16世紀にハプスブルグ系のカルロス1世(後の神聖ローマ帝王)がナポリ王国のフランス王族を完全に排除し、ナポリを含むシチリア王国はスペイン王国の属州となります。これだけでも波乱万丈ですが、その後も奪い合いは続き、18世紀のスペイン継承戦争でハプスブルグ家がナポリに入城しオーストリア王国が支配することになります。しかし、パルマ公であったスペイン王子カルロス(ブルボン系)がフランスと手を組み、ナポリもシチリア島も取り返し、両シチリア王国が実質的に成立します。下の王宮はその頃のものです。
しかし、その後も収まることはなく、19世紀になると今度はフランスのナポレオンがブルボン系シチリア王をナポリから追放、シチリア王はシチリア島に逃げます。その後ナポレオンも失脚し、ウィーン会議の結果、両シチリア王国が正式に承認されフェルディナンド(スペイン王の三男)が国王に復帰し、イタリア統一までこの両シチリア王国が続くことになります。
雨模様ですが、せっかくナポリまで来たので青の洞窟は外せません。粘り強く港で待っていると船の運行が開始されるというアナウンスがありました。いっぱいいた観光客はほとんどいなくなっていたので、幸運にもすぐに乗船出来ました。
これからカプリ島まで船で向かいます。
そろそろカプリ島も近づいて来ました。
このあたりで洞窟に入るための小舟に乗り換えます。
ここがカプリ島です。
さあ、これからは何がなんだかわかりません。
波が引いて、洞窟に入りやすくなったら一気に船が洞窟内に突入します。乗客はほとんど伏せた状態まで頭を下げていますが、私は上を向いてシャッターを押します。
おおっと言っているまに真っ暗な洞窟です。
後ろを振り返ると入って来た洞窟が見えます。
せまい洞窟の中を船が旋回して、出口に向かいます。
おおっ!!おおっ!!と言っている間に、船は洞窟を出ていました。
美しさに感動している時間はほとんどありません。というか青の洞窟というより黒の洞窟に近いです。やはり雨の日では写真で見るような明るい青は無理のようです。参考までに晴れた日は下のように見えるようです。
小舟はどんどん入って行きます。
なんとなく満足感のないまま、小舟を降りて島に強制的に上陸です。そこにはおしゃれな土産物屋が並んでいました。
そしてレストランで昼食です。
それから更にリフトに乗って山頂近くまで、ほぼ自動的にめぐることになります。
天気が良かったらもっといいのですが。
下の船着き場は住民用なのでしょうか。
頂上近くに家が並んでいます。
昔から住んでいるのでしょうね。
山を超える感じで歩いて降りるとナポリ行きのフェリー乗り場があるマリナ・グランデに到着しました。あっという間の青の洞窟ツアーを思い出しながら、やっぱりポンペイに行けば良かったなあと悔やんでも悔やみ切れません。でももう時間切れ、ロンドンに戻らなければなりません。
今でもテレビでポンペイ遺跡の紹介があるとこの時の判断が悔やまれてなりません。くやしいです!!
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?