はげ頭つい目に浮かぶ子規忌かな
先日NHKの「歴史探偵」と言う番組で正岡子規のことをやっていました。
見逃した人の為に私が印象に残ったことを書いてみます。
一番面白かったのは子規が独自の辞書を作っていたことでした。字数毎に花や道具など分類して書いてありました。この辞書があれば、例えばこの意味で3文字の言葉はないかなと探すのに便利そうです。こんな辞書を作るなんてやはり俳句に対する熱意が違いますね。
それから江戸時代の俳句俳諧を徹底的に研究してこれらの俳句を「陳腐卑俗」とバッサリ切っているのも愉快でした。一茶や芭蕉を否定しているのではなく、宗匠と呼ばれる俳句の師匠の目に叶うように師匠の真似をしたり、師匠に喜ばれるような句を作っていることを批判しているのですね。確かに俳句の季語を見ても師匠の「なんとか忌」がやたら多く、師匠あっての俳句という世界を垣間見る気がします。
番組では次の2つの句を用いて写生を俳句の原点にした子規の世界を解説していました。
五月雨をあつめて早し最上川 松尾芭蕉
五月雨や大河を前に家二軒 与謝蕪村
美術学生にこれらの句を読ませて絵を描いてもらうと圧倒的に蕪村の句の方が描きやすいようです。蕪村は江戸時代は余り有名ではなく子規が再発見したとも言われています。まさに俳句は写生だとする子規ならではの発掘なのでしょうね。ただこの二つの句を絵で比較すること自体、個人的にはちょっとアンフェアな気もします。もちろん写生ということを強調する為の演出なので仕方ありませんが、芭蕉は「最上川の凄さ」を詠っているのに、蕪村は「五月雨の凄さ」を大河と危なげな家二軒で表している訳で元々全然違うものです。でも家二軒という具体的なものがあると絵はとても描きやすいので、イメージが湧きやすいと言うことは番組の演出通りですね。
ちなみに蕪村の有名な句
春の海終日のたりのたり哉
蕪村の句でもこれは絵にするのは難しいと思いますね。
あとは野球が好きだったこと、その野球をわかりやすくする為にストライカー・打者とかフォアボール・四球などの翻訳をしたと言う紹介もありました。でもストライカーは今ではバッターのことなので本場でも用語が変化しているのだと余分なことに感心してしまいした。子規は自分の幼少期の名前が「のぼる」なので雅号を一時「野球」にしたという逸話は残念ながら番組では出て来ませんでした。やはり「やきゅう」ではなかったからですかね。雅号と言えば有名な話ですが、子規という名前は肺結核になった自分を「鳴いて血を吐くホトトギス」に見立てて、自らホトトギスの別名「子規」にしたんですね。やはり子規は洒落が大好きなんですね。
番組では子規の詠んだ俳句が25000句でほぼ一茶と同じ数を34才の若さで詠んだことが紹介されていましたが、一緒のボードに書いてあった芭蕉の俳句数が一桁違う1000句とありました。そ、そんな!多分その何10倍は詠んでいるはずですが、自信を持って人に見せられる句が1000句と言うことでしょうか。なんでそんなに驚くかと言うと私も1年ちょっとで1000句に達しているからです。なんでもいいならいくらでも出来ますが、それを俳句数と数えるのは些か「おこがましい」ですね。
私の俳句も量で勝負の1年目が終わり、質にこだわる2年目に入りました。そして来年の後半には結果が問われる3年目になります。それまでに何とか俳句らしいものにして行きたいと思っています。
秋の宵俳句つぶやきながら飯
食事をしながらもつい俳句のことを考えてしまいます。健康によくないことは分かっていうのですがついついです。
花の名や虫まで気にす俳句好き
俳句をやるようになって一番変わったことは、近所の木々や花、飛んで来る鳥など花鳥風月により興味を持つようになったことですね。これも時間に余裕のある老後の楽しみの一つです。花は春、虫は秋の季語ですが、「花の名」として春を消し、秋の句にしました。