大好きな柴田聡子さんについて語りたい(20)柴田さんは非言語のことばを歌詞化されているのでは
ハーイ、こなさんみんばんは。
桐山です。
「大好きな柴田聡子さんについて語りたい」(以下、「大好き柴田」)」もついに第20回目を迎えました!やったー!!
今日の内容は、「あとで編集するのはアリです!」と自分の中にいる編集長に許可をいただいたため気軽に書いてみます。そのため、いつもより口語調になっているかもしれないのですがご勘弁を。
ひょっとしたら、こっちの文体の方が読みやすいかも?なんていう期待もしつつ、続けます。
柴田さんは「非言語」を歌詞にする挑戦を続けているのでは
早速、今回の記事で言いたいことを見出しにまとめました。
柴田さんの歌詞を読んでいると
「言語化することが難しい感情を諦めずに誠実にそのまま伝えようとしてるのでは!」と思う部分をたくさん感じます。
例えば、次の歌詞たち。
"いいあらわせない景色がある わりと内緒の景色がある 前触れもなく景色がある さえわたる景色がある"(『景色がある』)
"ふたりで読めない手紙 送りあってため息ついて パパパパパパ パパパパン"(『わかっているのに』)
"持ってない言葉で叫んでるイメージで
以心でしょ 伝心でしょ 努力は大事でしょ"(『すこやかさ』)
"どこへも行かないで 絶対違うけどよく似てる言葉"(『どこへも行かないで』)
また、『好きってなんて言ったらいいの』はタイトル自体がそれについて言っているようにもみえます。
「好き」って言語は存在しているんだけど、今自分の気持ちはその言葉で表してしまうことがはばかられるっていう意図が感じられるんですよね。みなさんは、どう?
あと、僕がFANZINEの第1集・2集のどちらにも大好きな歌詞として紹介した次の部分。
"すみれの花が すみれの花が すみれの花が"(『ニューポニーテール』)
この部分「すみれの花が、どうしたの!?」と思いながらめちゃくちゃ感動してしまうのですが、もしかしたらこの省略部分は「言語化できないことば」ということなのかも、と新しい解釈をしてみてちょっとしっくりきています。
全員喋り方忘れて
って、『三つの屋根』という曲の中にもありますよね。
喋り方を忘れて、「言語じゃないことば」でコミュニケーションを図る。これが柴田さんの歌詞の表現のユニークさを生んでいて、「柴田さんのうたを聴いたひとには、歌詞が頭じゃなく心に近いところで感じられる」。そうなっているんじゃないかと思った。
歌詞の考察を続ける僕の無骨さ
をたまに感じることがある。
この前提として、僕は例えば次のような意見には大賛成の立場なんです。
「別に歌詞について、細かく考えなくてよくない?感じたまま受け取れば、それでよくない?」
その通りと思ってます。
その立場になると、途端に僕のやってることが無骨に見える。それは何故か?
それは、非言語を表現されようとしている歌詞を言語で解釈するアプローチだからかもしれない。
今回の考察を通じてそう思いました。
以上!
ああ、そうそう。ツイートにも書いたんだけど
7月9日(日)の文学フリマ札幌に出店します。
FANZINEの第1集・2集と、「新作のZINE」を販売予定です(あくまで予定ですー)。
https://twitter.com/kiriyamaragain/status/1659527440564359169?s=46&t=NvsiHtVltOHCz8vaenktGw
お近くのかたでご興味あれば、ぜひ来てくださいねー!