小説『Feel Flows』⑬
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(十三)
昨日の夕飯は近所のスープカレー屋さんにした。初めて行くお店だった。
そのとき客は僕ひとりしかいなくて、店主の女性にいろいろと話しかけられた。女性はお店をひとりできりもりしているようだった。年齢はおそらく僕の親と同じくらいだ。
「最近、材料費が高くなってね。ただ、商品の値段もあげたくないし、量を少なくするってのもなんだかずるいしね。
どうしたもんかと思っていたら今日、卸売りの人が飛び込みでやってきて
"マスター、仕入れ値を今よりも安くできますよ"だって。
こういう状況を狙った新しいビジネスってのもあるのね」
こんな何気ない世間話をしてくれることが、とてもうれしかった。
ずっと自分は、自己反省の言葉以外を述べるのは許されていないと思っていた。
他愛ない話なんかしちゃいけないと思っていた。
自分は誰からも必要とされていなくて、誰かから気軽に話しかけてくれることなんてないと思っていた。
僕はこう応えた。
「僕も仕事は営業をやっているのですが、飲食店の営業っていまはそんな感じなんですね。
ただ、素人考えですが、安けりゃいいってものでもないのかなと思いましたが、どうなんです?」
「そこなのよ。さすが、営業の方はわかるのね。
食材を安くする代わりに、必ずコーヒー豆かデザートもその業者さんから買ってくださいって、そういうことなの。
きっとそこで利益を取ろうって魂胆なのよ。
今扱ってるデザートも人気だからね、そこのものにすっかり換えるのもどうかと思って。
難しいわね。
そうそう、その業者さんがサンプルにって置いて行ったデザートがあるわよ。
食べてみる?サービスにしておくわ」
「ありがとうございます。僕の感想でよければ、参考にしてください」
その流れで僕は「オペラ」というチョコレートケーキをご馳走になった。美味しかった。その感想を素直に伝えた。
お会計の時、こう言った。どうしても伝えたかった。
「あの、今日はありがとうございます。
ケーキのこともそうなんですけど、
実は最近思うようにいかないことがあって、落ち込んでいたんです。
話しかけていただいて、少し気持ちが楽になりました」
涙が出て声が詰まってしまいそうで、それ以上は続けられなかった。
店主は僕の目をまっすぐに見て、
「こちらこそありがとう。
気が向いたら、また来てください」と優しく声をかけてくれた。
店主にとって、僕は初めて会うひとりの客だ。
僕との間には、ただそのことしかない。
このひとにとって、約1ヵ月前に僕の身に起きたことなんて関係ない。
なぜ僕はそう思えていなかったのだろう。
僕が今苦しんでいるのは、他人との間にある問題だ。でも、それは不特定多数のひととの間のものではない。
なぜ、僕は「自分と自分以外のひとすべて」の問題であるかのように思っていたのだろう。
僕は、この一件でとても視野が狭くなっていた。
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