田舎者が渋谷に憧れてボロアパートに住んでた話
昔、渋谷センター街のあたりに住んでたことがあります。
どんな高級マンションと思うかもしれないけど、全然違います。
30年前、1984年。高校を中退してぶらぶらしていたわたしは、「東京に行こう!」と思いました。
生まれ育った福島県の田舎には、何にもありませんでした。まわりはぐるりと田んぼで夏はカエルの大合唱。かろうじて本屋はありましたが、映画館はなく、コンサートやイベントもなく、当時はインターネットもありませんでした。唯一の楽しみは、父が毎週録画してくれたベストヒットUSA。
コンサートに行ってみたい。東京にはミュージック専門のチャンネルもあるらしい。ミュージックライフ誌を読みながら、東京への憧れが募りました。
どうせ住むなら、渋谷や原宿に住みたいな、と思っていました。
田舎者だったので、そのくらいしか東京の地名を知らなかったのです。
新宿は知っていましたが、ちょっと怖い、と感じていました。
就職先は、電機メーカーの派遣事務に決まりました。安月給です。
本来なら渋谷になんてとても住めないはずでしたが……物件情報誌で、見つけてしまったのです。
渋谷駅から5分、2万5千円。
築何十年かのボロアパートは、渋谷センター街をちょっと入ったところにありました。六畳一間のドアは引き戸で、ひっかける鍵がついてました。トイレ共同、もちろん風呂はありません。なんと当時は、渋谷センター街の裏に、銭湯があったのです。
30年前は風呂無しアパートが普通だったんだ〜って思うかもしれませんが、いえいえ、全然普通ではありませんでした。昭和の名曲「♪ 2人で行った横町の風呂屋〜♪ 一緒に出ようって言ったのに〜♪」の『神田川』は、1973年の発売で、今から40年前です。30年前はもう普通の学生や若者はワンルームマンションや風呂付きの小綺麗なアパートに住んでいましたし、また、現在のようなスーパー銭湯もまだなかった時代です。
とにかく、30年前の時点で、風呂無しボロアパートを選ぶ若者は、お金がないか、訳ありか、変わり者だったのです。
わたしの場合は、とにかく「渋谷」に住みたかったのです。
大都会渋谷に住めるのなら、ボロくて古いのなんて全然気になりませんでした。かび臭い畳を水拭きして、ジュータンを敷いてパイプベッドを置きました。カーテンは、渋谷の駅前の布地屋で布を買って自分で縫いしました。
はじめての自分1人の城でした。福島の実家では、ずっと妹と同じ部屋の二段ベッドだったのです。
渋谷なら、電車がなくなっても原宿から歩いて帰ることができました。
地元ではテレビのチャンネルはNHKと民放と3つしかありませんでしたが、東京にはいろんなテレビがあります。東京12チャンネルもあります。ミュージック専門チャンネルは神奈川だったので、見られませんでした。
ボロアパートには、少し年上のとっても親切なお姉さんがいて、部屋に呼んでくれて、夕食をご馳走してくれました。
「みんなに紹介したいから」
と連れて行かれたら、宗教施設だったのも、懐かしい思い出です。
ボロアパートは、入ってから1年足らずで再開発で壊されることになりました。
引越代が出たので、渋谷のもう少し先のNHKのあたりの、これまたボロアパートに越したのですが、そこも再開発で出ることになりました。
どちらのボロアパートももうありません。あたり一帯がピカピカのビルになってしまいました。
渋谷に憧れて上京してボロアパートに住んでいた、10代の終わりころ。怖い物知らずで、でも自分に自信がなくて、実績もないくせに何でもできそうな気がして、刹那的な毎日を生きていたころを懐かしく思い出したのは、渋谷駅が大改築していたからです。
久しぶりに渋谷に行ったら、東急デパートがなくなっていました。
渋谷駅一帯が、ふたたび再開発されるようです。
壊して作って、また壊して。
ハチ公前のスクランブル交差点を見下ろして、ちょっとだけセンチメンタルな気分になりました。
今もここに、怖い物知らずの刹那的な毎日を生きている若者がいるのでしょう。
そんな若者を惹きつけ、飲み込んで、渋谷という街は何度も蘇り、生まれ変わってゆくのでしょう。
どんなふうに姿が変わっても、渋谷はわたしの思い出の街です。
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