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時制と描写について分析してみたら結構意外だった

昨日書いた日記で、時制と風景描写で壁に当たったと書いた。

基本的に現在進行形の作品において、実際に書いてみると、以下の2点が悩ましく感じられたのだった。

  • 過去形と現在形をどう使い分けるか

  • 風景描写(以下、単に描写)をどのようなタイミングでどのぐらいの頻度入れるか

そこで、とりあえず以下の3作を読んで、分析してみたのだった。

  • 『三四郎』 夏目漱石(冒頭の1章)

  • 『網走まで』 志賀直哉

  • 『伊豆の踊子』 川端康成(冒頭の1章)

まず時制のほうだが、何だかんだ言っても、お話をしている体裁だから、現在進行形で進んでいくような筋立てでも、基本は過去形でよい。その中で特に臨場感を持たせたい箇所は現在形にするという感じで、共通していた。

なお、過去形が続くと、当然ながら文末は「た」が続くことになる。それを私はみっともないことと思っていたのだが、漱石も直哉も康成もまるで気にしていない。読んでいるほうも正直気にならない。これは本当に驚いた。

文豪も小説の神様もノーベル賞作家も気にしていないことを、何で私ごときが気にしないといけないのか。

が、もしかしたら、文豪や小説の神様やノーベル賞作家だから許されることなのかもしれない。

次に、描写。これも驚いたのだが、3作とも描写が少ない。『網走まで』と『伊豆の踊子』は短編だからかもしれないが、小説の神様もノーベル賞作家もほとんど描写を入れない。むしろ主人公の考えたことを書くほうが多い。文豪もそうだ。三四郎のくよくよした考えをたびたび聞かされることになる。

志賀直哉や何だかんだ言っても「私小説」の系譜につらなる人だからまだわかるが、川端康成に関しては、『伊豆の踊子』や『雪国』の冒頭部分の描写表現にショックを受けた経験のある人はとても意外に思うだろう。

もちろん描写している箇所はいくつもあるが、必要不可欠なところにだけ、できるだけ簡潔に入れることを心がけているように思われた。

あとは、ちょっと時間の流れを止めたいときに描写を入れるみたい。メリハリをつけるためだろう。

たしかに描写の多い小説は飽きる。読みやすい文章がいいとは限らないが、今回対象にした3作は・どれもテンポが良くて、飽きない。

ということで、時制も描写もあまり深く考えずに、テンポを大事にすれば良さそう。

また壁に当たるだろうけど、とりあえずはこれで進めてみよう。

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