2つの壁
2024年10月5日(土) 曇りときどき雨
書き始めるとスラスラ書ける。一気に6枚ぐらい書いた。
だがそれは調子に乗って書いているだけのことで、やはり壁に当たった。しかも2つも。
1つは時制の問題。日本語に時制というものがあるかないかという文法上の論争はさておくとして(英語的な時制がないのは確かだが)、少なくとも現在や過去を示す助動詞は存在している。なので便宜上、現在形、過去形という言葉を使わせてもらう。
小説を読んでいるときは意識していなかったのだが、いざ自分で書いてみると、ここで現在形を使うべきか過去形を使うべきかは存外難しい。
小説自体は一部の回想シーン(と言っても長いものではなく、現在の状況を説明するための、せいぜいパラグラフ程度の長さのもの)を除いて、現在進行形なのだ。であれば、回想は過去形、他は現在形で良さそうなものだが、そんな文章は実に不自然である。
不自然なのと、あとは同じ語尾が繰り返されやすくなるという、文章の体裁上の問題も発生する。
小説、特に純文学の文章なんかは癖があって、多少読みづらいぐらいのほうがいいと思う(例:西村賢太)のだが、幼稚な感じになるのは避けたい。見栄と言えば見栄だが、避けたいものは避けたい。
もう1つは、風景描写(以下、単に描写という)の問題。描写それ自体が難しいことなのだが、技術上の話ではない。もちろん技術も足りていないのだが、今悩んでいるのは、いつどこで描写を入れればよいかということだ。
乗ってくるとスラスラ書けるわけだが、見直すと、数ページにわたって、筋と心理だけ書いていることに気づく。描写がどこにもないのだが、では改めてどこに描写を書き込めばいいかと自問すると答えがない。
これも小説を読んでいるときには意識していないことだ。書き始めてから、いかに無意識に小説を読んできたかに気づく。
だから「写経」せよと先人たちは言ってきたのであろう。
しかし写経はまだるっこしい。私は早くどうすればいいか知りたい。せっかちなのだ。なので現在進行形で進んでいる小説を探してきて、それを分析することにした。漱石の小説などは現在進行形が多そうだが、文章に意識的とういう意味では三島由紀夫が良いかもしれない。
このあたりの短篇を選んで、詳しく吟味してみようと思う。分析結果は、別の記事に書きます。
書くこと自体を考えて、悩んでいるのは、正しく進んでいるということか?