我々は客体ではない
私は健康診断が大嫌いである。
特に子宮頸がん!女性の方ならお分かりいただけるであろう、あの恐怖、或いは屈辱、痛み。
その健康診断とシンクロし、至った事実。
我々は客体ではない。
モノではない。
尊厳のある、実存である。
魂、心、なんでも良いが、あったかみのある尊い、などでは表せない神聖な全てである。
そんなことを勿論わかっているつもりで、だけど実は自分の中、気づきもしないどこかで
どうしようもなく、客体として扱われ方を完膚なきまでに甘受していた。
それはつまり「良品」「不良品」として選抜されることを許しているのである。
仕方ないと諦めているのである。
なすすべがないと絶望しているのである。
そして、不安に怯えているのである。出荷検査、外からの評価に今日も明日もパスできるのかを。
楽しく、やりたいことが、結果所謂「改善」と世間で呼ばれることもあるだろう。
それならば良い。
だが、そのあなたの行動に怯えはないか。
「良品」になる為の作為、ではないか。
努力は尊いと言われ、誰かの、何かのための「良品」となる行いではないか。
もし、そこに一つでも「怯え」があれば、
残念ながら、おそらく楽しく自発的に為している、または為している「つもり」である行動も
いつか恐怖に変わるだろう。
不安や恐怖と表裏一体の「楽しさ」であろう。
しかし、その「おそれ」「怯え」に真に気付いたとき、あなたはもう怯えることはない。
それはつまり、自分が客体であったことに気づくことと同義だからである。
気付いてしまえば、自分はまさか「モノ」であると受け入れる人間はいないだろう。
そしてそのとき、自分の体の奥底に今までのあらゆる外圧により小さく、小さく、閉じ込められてきた自分という存在が解放される。
体をとびこえ、「実存」という言葉が自然と湧き起こるような。
主体とも少し違う、だが自分は決して客体ではなく
自分に選択権があることを、圧倒的な迸りとして、ただ揺るぎなく実感する。
しかも自分が他人を選別するという主体ではない。主客が逆転するわけではない、自己の決定権。
他人の存在感は薄れるものの、蔑ろにするわけではない。
そんな瞬間が訪れるのである。
そしてそのとき初めて
「他人が自分にして欲しいこと」「という意味で結局したほうがいい、と無防備に思い込んでいること」
それらの感覚が遠ざかり
「したいことがわからない」
という地獄から解放され
「自分のしたいこと」という選択肢が生まれるのだ。