媒介が必要?
以前にも書いたことがあって、そのタイトルを思い出したいけれど、出てこない😖
家族のあり方について、自分が気づいたことだったような気がする。
子どもは、殆どが2歳あるいは3歳くらいまでは、遊びにでかけると言っても、自宅付近か近くの公園で、お母さんと遊びに行く…または、お父さんがお休みであれば、お父さんと行きたい。誰と行くかがとても大事に思っている(お父さんと行きたい!)。こんなふうに書くと2歳くらいかな〜?と思う。それでも、もし小さな島で育てば、周りの子ども達も同じ経験を共有しているので、それ以外のことへの興味がないと思う。
その内TVを見て「あれなーに?あそこへ行きたい!」というようになる。実はその時が、そのタイミングであって、本人が何も分からないうちから、あちこちへ連れて行く。それは、連れていきたいからだ。
本人が望んでもいないのに連れて行きたくて連れて行く。そして後に、そのような習慣を作ってしまったのは、自分達だということも気づかず、「贅沢だなー!」と嘆いたり、面倒がったりする。これは、私の自己批判から始まった。気づいたのだ。
いつもの公園ではつまらないのは、私の方。子どもは黙々と遊んでいる。孫の時もそうだった。歩いて2分(2歳の足で)の所にある公園に早く食べて早く行きたい。前の晩から兄弟で「あした今日の続きやろうねっ!」と楽しみにしている。もし、その明日が休みの日だと、父親が何か喜ばせたくて、どこかへ行く計画を…。
次の日「嫌だ!」と言う子もいれば、誘惑される子もいる。それがお休みの日の朝の出来事。折角のお休みが二人の子どもをニ分する。
子どもの予定など全く無視。子どもの予定に目を向けていれば、平和な休日の朝。のハズ。ところが、どこかへ連れて行くのを喜ぶに違いないと思っているからだ。すかさず喜ぶように、育ってしまった子どももいるだろう。
それこそ、のちに自分探しをしなければならない人に育つ。小さな一つ一つの事を自分の気持ちで生活できる環境があれば、自分が育っている。自分がそこにある。探す必要がない。それは、こんなことで妨げられているのだ。遊びばかりではない。もっと良いと、親が思うことに誘惑され続けて見失う。
そうは行かない様々な理由があるとしても、親が何とか、それをできる環境を整えることに熱心であれば、届く。様々な理由に経済的…これは、子どもが望んでいることの方が安上がりだ。また子どもの気持ちが、分れれば、それは話し合う…この手間も、のちにとても大切なことを育てていることになる。
そう、何が言いたいか、ディズニーランドへ行くとか、旅行をするとか、何かに媒介されなければ、仲良く過ごすことができないように育ててしまっていることにお気づきだろうか?コロナの問題が起こる前に私は言っていた。
お金がかかるように、または、かけなければ、幸せではないかのように、またどこかへ出かけなければつまらない、と言うように育ててしまった。そういう楽しみを一緒にすることでしか仲良く過ごすことができなくなった。そうだ、この両親も結婚前のデートは、どこかへ出かけることで楽しく仲良く過ごしてきたのかもしれない。結婚以前にコロナ自粛があったとしたら、別れてしまっていたのかもしれない。
それから、もしかすると自分がそれをしたかったのにしてもらえなかった…と親の側に残っているからかもしれない。だから自分の子どもにはしてあげたい。ところが、自分の子どもは、全く違う時代を生きている。それに別の人格を持って生まれて来た。親の人生の続きを生きているわけではない。〈この子〉の気持ちに目を向ける。自分の思いに重ねても全く意味がない。本当に全く。
自粛中も出かけたくてたまらない…それは、大人が、親が代々教えてきたこと…なのだ。
こんな時は、こんなふうに、過ごそう!という気持ちを持っていれば、難なく乗り越えられる。
子どもは本来柔軟で有るハズ。
今、書いてきたことは、〈イエスやブッダは、きらびやかな物をお好みにならないのに、絢爛豪華な教会や寺院を建てて差し上げる〉というのに似ている。どちらも大切な存在だ。どちらもとは、子どもも神や仏もという意味。