2週間くらい前
これまで私は幾度となく触れてきた。
普通こうだよね、とか常識を頼りに生きている人たち。普通こう…と言うのだから、そう言う人たちの数が断然多いのだろうと思う。だって普通なのだから。
学校の頃も、何かの団体に属していても、〈多数決〉でことが進んでいった。
なのに、世の中の風潮をなんの抵抗もなく批判する人たちも、またこの人たちだと思う。
風潮というものを作り出している人たちは多数派だというのに…。
自分がそこに加担しているとは微塵も思っていない人たち。この人たちと同じ団体に所属していると、少数派の私など犯罪者かのように思われてしまう。丁寧に説明するから聞いて?!と言っても「あの人は違うから…」と思われてしまう。説明できたとしても、程遠く「何のこと?…、ちょっと何言ってるか分かんない」とサンドウィチマン富澤さん状態😔
私から見ると何も考えずに済む、考えるのが好きじゃない、考えるのが面倒…。と言うばかりではない。本人がまだ気づかない内に、教え込まれ刷り込まれてきた。そうやっていれば、面倒なことにはならないのよ…と。
面倒なことや悩むことはいけないことなのだと言うことも、そこで学んだ。
2週間ほど前になるだろうか、ある女子高生が〈過剰包装〉にSNSを通して、一言意見を述べた。そこからまたたく間に広がったと言う。
国連で意見を述べたのも高校生だった。日本にもこんな人がいるのだと嬉しくなった。
私も普段から、その過剰さに不満を抱いていた。
いくつもの問題がある。ある1つの例をあげると、コンニャクやお漬物、茹でた豆、タケノコなど、茹で汁などの水分が多いものを、メーカーが密閉のプラスティックバッグに入れて出荷したものを、スーパーで発泡スチロールの皿に乗せ、更にラップで包む。
これだけでも、プラゴミが沢山。その上生産性が低くなる。そして使う側も幾重にも開けて、やっとその物に到達する。いくつもの無駄と汚染物質。
そのニュースに街の声は、「いいと思う」と言う人より「困る、お菓子など個包になっている方が便利」という人の方が多かった。
便利さ、清潔さを過剰に求め続けた結果が、今の問題を産み出したのだ…。というところには至らない。私もそういった物を求めなかったわけではない。けれど、気づいたのだ。
こんなに世界中が問題視しているのに、多分そのことは、知っているのだと思うけれど、なぜそうなったかは〈考えない〉。この考えないというのが、大きな問題なのだ。その原因は代々の親にあり、この国の教育にも大きな問題があるのだと思う。私の母も考える私を叱りつけた。「親の言うことさえ聞いていればいいの!」と。
受験のための勉強、知識を与えるだけの教育。
教育を考える国の機関である文部科学省の人も大臣も、そもそも政治家全体も〈考える〉を持たない人たちが司っている。想い、考える…それが最も足りない、乏しい国だと思う。真似る、中身は関係なく外側だけ真似る。真似る、まねぶ、学ぶへは至らない。そして文化人の仲間入りをしているつもり。
こんな大きな問題に直面している今、政治家は何も出来ない、専門外の医学者も業を煮やし政治のことにまで口を開かせてしまう始末。