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正岡子規評

子規が生きていた時代は今から約百十数年前の明治時代です。
三十五年という短い生涯の中で俳句・短歌・散文の文学革新を行った人物です。

この俳句を知っている方も多いのではないでしょうか。

「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」

子規の有名な俳句です。正岡子規は柿が大好物でした。
こちらの俳句も柿のことを描いています。

「柿くふも今年ばかりと思ひけり」

なぜ、「今年ばかり」なのでしょうか。
それは彼が脊椎カリエスと肺結核という病を患っていたことから
いつ、死ぬかもわからない状況だったためです。

しかし、その想像を絶する苦しい病に冒されながらも子規は筆をとり続けました。
彼の存在は文学界に確実な変化をもたらしました。
それほど、子規の残した書文はぼう大であったのです。

中でも、
「病牀六尺」という随筆は

冒頭から、
「病牀六尺、これが我世界である。」
と書かれています。

子規の小さな世界を中心として、描かれたこの作品は死ぬ年に執筆されています。
その内容は死を前にしながらも、決して暗い筆致ではありません。

6月2日の記述には、
「悟りという事はいかなる場合にも平気で生きて居る事であった。」と書かれています。

何気ない、日常のことからこのように哲学的に深いこと、
さらには、病気と闘っている姿をあくまでも客観的にとらえています。

8月9日には水彩画についての記載、
「いろいろに工夫して少しくすんだ赤とか、少し黄色味を帯びた赤とかいうものを出すのが
写生の一つの楽しみである。神様が草花を染める時もやはりこんなに工夫して楽しんで居る
のであろうか。」

病など感じさせないような雰囲気がそこにはあります。
確かに病を苦しいと語る日もあります。
しかし、それが作品の全体ではありません。

子規の居る六尺の宇宙は、小さいようで深く、様々な色彩に満ちています。

そんな子規の周りには「子規山脈」という言葉で表されるほどたくさんの人間が集まりました。
例えば、作家の夏目漱石。俳人の高浜虚子。子規が二人のことを詠んだ俳句があります。

「漱石が来て虚子が来て大(おお)三十日(みそか)」

二人は子規にとってかけがえのない友人であり、同じ志をもつ仲間でもあったのです。
病状は悪化の一途をたどっていきましたが、病と闘いながら筆を離しませんでした。
そんな姿に多くの友人が励まされていたことでしょう。

正岡子規の病床六尺の世界は死の間際でもどんどん広がり、深みをみせました。
それは現代に生きている私たちにも生きることの「彩り」を教えてくれるような気がします。


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