見出し画像

喩えればそれはダイヤモンドのように

中間レポート、制作物の締切に終われ余裕のなくなった私は、久しぶりに憤怒した。なにかに強く抗議したくなったのは、初めてのバイト先でASDまがいのコミュ力(攻撃力ブッパ)を披露した結果、他のスタッフにドン引きされた挙句、スタッフ内のカップルの女(推定)に俺が身体接触(肩に触ったとか何とか)したとかいう疑惑をかけられた時ぐらいだ。巫山戯るな、俺はほぼ毎回ワンオペだったぞ。まぁその店俺がやめてすぐ潰れたんですけど。

本題に戻ろう。僕が何にキレたかと言えば

この記事である。ぜひ、一読願いたい。
ちなみにワナビーという言葉を知らない人もいるかもしれないので補足しておく。

ワナビー (wannabe) は、want to be(…になりたい)を短縮した英語俗語で、何かに憧れ、それになりたがっている者のこと。上辺だけ対象になりきり本質を捉えていない者として、しばしば嘲笑的あるいは侮蔑的なニュアンスで使われる。 
[ Wikipedia引用]

つまりこの記事は、「俺長年教授やってるんだけど憧れだけでこの分野入ってくる夢見がちな若者が言い寄って来てその割にやる気がなくてうぜえ。お前らが求めてるような何者かになるっていうのは好きなものを突き詰めた先にある(俺はそう)んだから君たちにもあるはずの大好きな他の分野に行けよ。」という旨をオブラートに包んで綴ってあるのだ。(曲解含む)

別に僕はこの±様、スーパーメディアアーティストのアンチでは全くない。あの鉄球がクルクルと自転しながらグルグル公転する作品なんて実物見た事ないのに大好きだし、実際に見に行きたいとも思っている。それに高度に発達した計算機科学を用いれば魔法(のように見えるもの)だって実現出来るなんていうロマン溢れるビジョンにも心踊らされたりもする。しかし、この記事、この思想、この視野は断固として許せない。絶対にだ。もう怒りすぎて、キレポイントのどこから書けばいいかが全く分からないくらいだ。

10分くらいして頭を整理してみたところ、怒りのピークがやってきたのはどうやら締めの段落だ。

というわけで,研究にもモノづくりにも興味がなかったとしても卑下する必要は全くない.自分が「好きで毎日やってしまっていること」をやってくれればそれがいいのだと思う.学生さんの成長を日々楽しみにしてみている.

自分が「好きで毎日やってしまっていること」をやっていればそれがいいのだと思う?何を言っているんだ。そんなものないんだよ!!世の中の大多数の人間には!!!だからこそ進学や就職といった節目で少年少女たちは思い悩んで、無理矢理絞り出した理想像・将来どうなりたいかを夢見て、苦心して、周りに合わせて、どうにか人生を歩んでいるんだ。そして目の前に残ったのもの中で好きだと’思える’ものを選んで生きている。そんな中で人生において自分が好きで好きでしかたなくて毎日やってしまう、なんてものに出会えることそのものがいかに稀か。それでいてそれが自分に合っていて、なおかつそれが生産的なことであるなんていうのはまったくもって奇跡的なことなんだ。恋愛に置き換えてみてほしい。人生において自分が好きで好きで仕方ない初恋の人と両思いで、何ならアイドルで、付き合えて、そして結婚まで至れた。なんとめでたいことか。なんと幸せなことか。どれだけ奇跡的なことか。漫画か?
危ない。最近の恋愛に対する危機感と俺の乙女チックな結婚願望が漏れてしまった。
とにかく!自分が好きで好きで仕方ないものに出会えた、それだけでもう特別な人なんだ。しかもそれが早い段階で出会えるなんて地区予選免除超えて県予選免除のスーパーシードだ。圧倒的猛者である。。確かに元記事の著者も環境に由来するところは認めていた。でも環境だけじゃない。圧倒的に運だって関係しているはずだ。それはもはや才能だ。足速いのと一緒だ。過言だ。

だからやりたいことが見つかってそれができて夢中になることが大事だ、なんていうのは自慢話に聞こえてならない。車いすに乗っていてリハビリ中の子の前で気持ちよく短距離走で一位取ってるみたいなもんだ。皮肉か。
しかもそれで飯食っていけて世間に認められるなんてグランドスラム達成したレジェンドだ。世界記録時保持者だ。偉人といっても差し支えない。差し支えるか。車いすの子の前でボルトが疾走して走るのは最高だぜって言ってるようなもんだ。ボルトには心がないのか?
しまった。間違えてボルトを悪魔に変身させてしまった。申し訳ない。
要するに一人っ子にして親がエリートであり生まれながらに興味の源泉が事欠かない環境の下、好きことを早期に発見できた圧倒的絶対強者が振りかざしていい主張じゃない。暴力にもほどがある。

つうかよぉ、ワナビーてのはよぉ、何をしたいかじゃなくて何かになりたい、肩書が欲しい連中のこと指す言葉だよなぁ?それを批判する文章の冒頭が肩書から始まるってのはおかしくないか?やりたいことをやった結果名前がついちゃっただけですのスタンスで書くなら、「8年学生を指導して」と書くべきじゃないか?権威を大事にするアカデミックの宿命かもしれないけれど、僕にはどうしても著者の肩書にとらわれているように思えるんだよなぁ。noteにすることに承認欲求すら感じなくもない。本当に迷惑なら次から合う学生にその旨のプリントでもpdfでも渡せばいいだけのことだし。たまたま、生まれがよくて才があって環境が整っていて運がよくて何者かに成れただけで根本はワナビーと変わらないんじゃないか?実際のところどうであるかは、あの記事からではわからないし、本人しか知らない。もはや本人すら知らないかもしれない。でも記事からという限定的なソースだけで判断するのなら少なくともそういう視点だってあってもいいはずだ。そういうことを考慮に入れず、「刺さった。」だの「行動しなきゃなと思った。」だの「素晴らしい。」だの言ってる奴ら。一生言ってろ。一生刺さってろ。一生崇拝しろ。馬鹿か。冷静になれ。だからワナビーって言われるんだよ。目を覚ませ。自分の頭で考えろ。自分だけじゃなく他人も否定しろ。それでも否定しきれないことだけを肯定して学べ。それがお得意のクリティカルシンキングだ。いまのままじゃどの分野に行ったって同じに決まってんだろ。
後ついでに著者がやっていることは、たらい回しだからな。救いの手に見せかけた、面倒ごとの押し付けなんだよ。加えて、自らがやっていることを神聖化するような表現は、何かになってみたかったなくらいの小さなワラビだった者を、海賊王よろしく海へと駆り立て、世はまさに大海賊時代、立派はワナビーが群雄割拠になる危険性を孕んだ大タル爆弾だ。最悪だ。勘弁してくれ。ONPIECEかモンハンかはっきりしろよ。
つまるところ、あの著者はわかった気でいるけれどワナビーとは何で問題の本質はどこにあるのかを何もわかっていない。知ったかぶるな。

つい筆が止まって思いつく限りを文字に起こしてしまい品のない駄文と留年してる若造風情が説教じみたことを書いてしまった。無理もない。僕だってワナビーにストレスを感じていないわけではない。
僕は今、ワナビーに囲まれてワナビーと肩を並べる世界に身を投じている。故に正直言って僕も軽蔑したりうんざりしたりすることもある。でも彼らだって彼らなりにその世界と向き合って、程度は異なるにしろ悩んだり、考えたり、自己嫌悪に陥ったりして必死に人生をよりよくするために頑張ってい生きているんだ。それぞれの節目でなんとなくでも選んだ今を変えたいと願っているんだ。別に大学教授様なんかに具体的に言われんでも心のどこかでわかってるんだ。遅いなとか、これじゃなかったとか、なんでやれないんだとか、葛藤しているんだ。当たり前だ。探してる最中なんだから。夢~中~になれる~ものが~♪い~つ~か~君をスゲェ奴にするんだ!!ってちっちゃい頃に悟飯と一緒に刷り込まれたんだ。だから夢中になることを探してるんだ。その道中で決めた選択肢に若い4年を費やすことに決めてしまったんだからせめて夢中になっているふりをしてポーズをとって自分を騙そうとしているんだ。どうだ、健気でかわいいだろ?苦しそうだろ?かわいそうだろ?全然幸せそうじゃないだろ?早く解放してあげたいだろ?
かくいう僕もずっとワナビーだった。何者かになりたかった。中学の時は部活の団体レギュラーのシングルス1に、高校の時は生徒会長に、受験の時は東大生に、そして研究なら茅場晶彦になりたかった。承認欲求が満たされる誰かに誇れるかっこいい何者かになりたかった。そう成ることが幸せだと信じていた。満たされると思った。でも違った。暗く閉じこもった浪人生活で夢が叶ったって苦しいことから解放されるわけじゃないとチューターから言われたときから、どうやったらこの苦しみから解放されるか必死に考えて、昼間なのに暗い部屋のベットのシーツの間で考えて、1時間流しっぱなしのシャワーを中で考えて壁に寄りかかって歩いた炎天下の下で考えて。わかった。
日常の中にある小さな光を、喜びを、感動を見つけられるようになることだと。それができることが、自分が誰であっても、何になっても、どこにいても幸せだということだと。よい人生だと。だから浪人生活を終えて第一志望に落ちても、目当ての先生がすでに転属していても、悲観しなかった。悟りを開いたと自覚した。宗教を開こうと思った。俺が釈迦。嘘だ。

でも僕は好きなことに出会えた。好きで好きで仕方なくてついやってしまうというほどではないけれど、常にそのことを考えてしまうくらいには好きなことに。少し出会うのが遅かったので地区予選のシードくらいの立ち位置だ。実に幸運だ。何者かにならなきゃという苦しみから解脱して、さらに好きなことが見つかるなんて。二刀流最強じゃん。俺がキリト。

また大嘘を書いた。本当は僕はまた何かになろうとしている。そして何者かになるためにできる限り行動している。どんなに言葉の意味を調べてもどれほど強くイメージしてみても、知れなかったあの探してた夢中とか一生懸命を、そのことで頭をいっぱいにしてHPを削って、今体感しているんだと言い聞かせている。THE OVERの落ちサビの歌詞が伝わるわけがない。でも苦しくないし自分をかわいそうとも思わない。ただそれになりたいから、好きなことを続けたいからそうしているだけで、「何者になるということそのもの」には興味がなくなったからだ。なぜなら私は絶対に幸せになれるから。よい人生を送れるから。

まぁ私の近況や自信なんてのはどうでもいい。結論を書く。今回の問題はどうやったらワナビーが消えるかだ。
ワナビーとは何者になることを人生のゴールだとしている人々だ。
このゴール設定は間違っている。この間違いを正すことがワナビーを根本から消すことに直結する。あるはずのない別の分野を指し示すことではない。
人生のゴールとは幸せを見つけることだ。
だから落合陽一様には前身が東京教育大学である筑波大学の教授として、学生を人を導き善良な人間へとする教育者として、ワナビーな学生が来た際には「今日うれしかったことは何か、何に感動したか」を考えさせるよう「人生のゴールは何者かになることではなく幸せになること」と教えるようお願いしたい。そして自らの特異性を自慢なく自覚し持つものとして発揮していただきたい。こんな文章が読まれるはずはないが。

最後に苦しむワナビーに向けて
君が輝こうとしなくてもいい。君の見ている世界が輝いているのなら、それは君自身が輝いているということなのだから。

P.S.この文章は承認欲求にその身を任せた文章です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?