Vol.1(2/2)ろう難聴者に「聞こえなかったら、分からなかったら、質問してね」と声をかけることについて
続き…
少し、話しは変わりますが…
私は、自分自身の難聴に気づいたのが小学校3.4年生の時でした。それまでは、家族も自分も「聞こえにくい」ことに、全く気づかず生活していました。
対面での会話は、問題なくできるのに、少し離れると名前を呼んでも来ない。「聞こえているけど、聞こえていない」。そんな状況に自分も周りも気が付いていなかったので、「(あなたの)名前を呼んだ」「呼ばれていない。聞こえなかった」と絶えず親子で言い争っていました。
まさか、自分が「聞こえていない」とは思いもしなかったので、頑固で、負けん気の強い私は、「嘘ついてないのに、誰も信じてくれない」と、何か悶々とした思いを抱えながら過ごしてきました。
しかし、だんだん成長するにつれて、周りとズレた行動をしている自分に気づき始め、自分に自信がなくなり、勉強も分からないと感じることが増えていきました。
学校の宿題や習い事で、つまずいたところを母親に訊ねても、「なぜ、こんなものが分からないのか。ちゃんと聞いていないから」と怒られるので、「分からないことを、『分からないから教えて』と言っているのに、『なぜ分からないの!』と怒られる意味が分からない」と、怒られる理由が理解できず、いつも泣いていました。
そんなことが続くうちに、「親に教えてもらおう」と思わなくなり、宿題も適当にするようになりました。「勉強はしたい人がすればいい。別にしなくてもいい」と思っていたので(笑)、高学年になると、学校から持ち帰ってきたランドセルは、一度もあけられることなく、毎晩、廊下で過ごすようになっていきました。
話は、戻りまして…
私の経験をもとに考えると、ろう難聴児は「(補聴器や人工内耳で)音や声が聞こえている」と思っていても「不充分な聞こえの世界」で過ごしています。つまり「聞こえているけど、聞こえていない」状態です。そのような中、私のように支援もなく音・音声をきいて生活するとなれば、分からないことだらけになるのです。
そこで、「分からない」と一口に言っても、「分からない」も様々にありますので、幼少期~思春期、大学生活の私が、「分からない」と感じていた場面・状況をいくつか、お伝えしたいと思います。
【分からない】と感じた状況
A. 話し手の口が動いていたので、「何か言った」ことは分かるが、音も声も聞こえなかったので、何といったのか〘分からない〙。
B. 音は聞こえたけど、言葉として聞こえなかったから、〘分からない〙。
C. 最初の文字、あるいは、後ろのいくつかの文字が聞き取れず、聞き取った言葉があっているかどうか自信がない。虫食い言葉、問題のないクロスワードみたいな感じで、言葉の意味が〘分からない〙。
D. 言葉は聞きとれたけど、初めて聞く言葉のため、言葉の意味が〘分からない〙。(カタカナ、外国語など)
E. 言葉の意味・指示することはわかったけど、内容・問題の意図が理解できず、どのように行動したら良いか、〘分からない〙。
F. 言葉として聞き取れたが、前後の意味や文脈から、何となくおかしいと思いつつ、勝手に思いこんで聞いている。そもそも、聞き取ったその言葉があっているか、あっていないか〘分からない〙。
例・・・にじゅう かち てんかい
「二十回転回? 何かわからないけど、多分そういう言葉?」と思っていたら、28.8 だった
G. 「○○する」という言葉は聞きとれても、「○○する?」(疑問)、「○○する。」(断定) なのか、音声の抑揚がききとれず、コミュニケーションがズレる。話す人の意図・気持ちが〘分からない〙。
H. 静かな環境だったら、聞き取れるけど、周囲の雑音や環境によって、言葉や内容が〘分からない〙。
(グループワーク中の友だちの声、プール・体育館など反響する場所、隣の教室の先生の声や音楽の授業の音が大きすぎる、屋外体育の先生の声、空調の雑音など)
I. 言葉が聞き取れても、音・声の方向性や誰が話しているのかが〘分からない〙。
例…「この人がしゃべった」と思い、その人の方を向くと、反対側の全く別の人が発した言葉だった。全員マスクをしていると、余計に分からない。
これらに付随して、以下のものは他者の指摘や経験によって、分かっていないことを自覚させられたものです。
J. 言葉として聞きとれたが、まったく違う言葉として理解している。あっていると思い込んで聞いている。
【 誤認 → 正解の例】
( 地井さん → 石井さん、1225円→950円、 朝食 → 昼食、4人そば→ 夜逃げそば)
K. 話し手の状況が見えず、音も声も聞こえていない。自分で聞こえていないことが分からず、周囲の指摘・反応をみて後に自覚する。自分だけが、「聞こえていない」という状況すら〘分からない〙。
A~Hの場合は、自分が聞きとれなかったと自覚があるので、質問する力があれば解決できるかもしれません。あるいは、聞こえたふり、分かったふりをすることがあるかもしれません。
しかし、問題は J・K の状況で、これは質問しようにも、質問できる状況にもならず、正解を教えてもらう、あるいは他人からの指摘がなければ、永遠に気づくことなく過ごすことになります。
また、一問一答形式や個別に声をかけられて聞き取れないときには、直ぐに聞き返せるけど、大人数で受ける一斉講義や授業の場合には、個人の都合だけで話しを止めることが難しいことがあります。何とか、タイミングをつかんで質問が出来たらいいのですが、質問する機会を逃してしまうと、そのままお蔵入り…なんてこともたくさんあります。
そこで、「きょうこそは!」とタイミングを見計らって、先生の所へ質問に行っても「なんだーそんなことー(笑)」と苦笑いされたこともあり、「この先生のところには2度と質問に行くまい」と、大人気ない決心をしたこともあります。
さらに、中・高校と学年が進むにつれて、音声での説明・指示が増え、分らないことがあり、質問したいと思っても、聞いているうちに「またわからない」「聞き取れない、なんて言ったの?」ということが、どんどん増えていきました。
それがつもりに積もると、だんだん面倒くさくなってきて、好きでない科目に関しては、あきらめの境地に入るか、分かったふりをすることが多くなりました。特に、中学生の時は思春期で、質問に行くことも恥ずかしいし、周りの友だちの反応も気になるし、質問の仕方も分からなかったので、学習意欲はさらに低下し、「自分は、頭が悪いから仕方がない」と別の言い訳をして取り繕っていました。
「聞こえる人」たちは、全ての情報が聞きとれて、その中から「これは必要」「必要ない」と判断し、聞いた情報を取捨選択していると思います。
しかし、それが難聴になるとそういう、取捨選択そのものが難しくなるし、そもそも聞いたとしても、聞き取った情報が正しいか否か、自分では分からないのです。
私は、聞き間違い防止のために「復唱」「メモでの確認」を心掛けていますが、つい「思い込んで」失敗することがいまだにあります。
気をつけねばと思いつつも、それがなかなかに難しいのです…。
そこで、手話通訳や字幕、PCテイク、ノートテイク、筆談など、取得情報の漏れを補うための支援は、「音声だけ」の時に比べたら、情報取得に使うエネルギー量が各段に減るので、どれもありがたい支援だなと思います。
本日は、このあたりで…
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。