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平凡な私と非凡な副産物

おはようございます。キリンと申します。

私事ですが、タイピングがとてつもなく早くなりました。
もう今ではブラインドタッチもお手の物です。

速くなった理由としてはやはり長期インターンが挙げられます。
大学2年生の時、当時バイトしていた店がつぶれました。
チェーンのカフェで業績不振とも思えなかったのですが、クレームも多かったようですし、従業員が問題を起こしたということで潰れたのですかね(他人事)
新しいバイト先を探さなきゃな―という思いと就活が心配という不安から次のバイト先は長期インターンにすることにしました。
こんなに裁量権をもらっていいのかというような職場で、そこでの経験のおかげもあり、就活での話題作りには困りませんでした。

長期インターンを始めるとやはりカフェでのアルバイトよりパソコンに向かう時間が多くなります。
そのためタイピングは鬼のように速くなりました。

タイピングが速いってなんか憧れませんか。
なんとなくかっこいいイメージがありますよね。
それは仕事ができるというかっこよさなのか、機械を使いこなしているというかっこよさなのか。
これは人それぞれかもしれません。

かく言う私もタイピングが速いことに憧れていました。
それに向けて努力もしてみました。
しかし、いざ自分ができるようになると何ということでもないです。

タイピングは速くなったけど、キーボードはこれからの最先端技術に取って代わられるのではないか。
そうしたらこの技術は意味なくなってしまう。
そもそもタイピングなんて努力すれば誰でも得られます。
努力して得られるものは得て当たり前であって、努力しても得られないものが本当に価値があるのではないかと考えました。

でも私はほんとーーーーーに凡才なんです。
「自分のいいところは平凡であること」とよく言ってました。
私には生まれ持った才能なんてない。
あるのかもしれないけど見つけていないし、見つかる予兆もない。
そんな不確かなものは当てにできない。
もちろん、本当に価値のあるもの、つまり生まれ持った才能が必要なのかといったら無くても生きていけるとは思います。
でも、あるに越したことはないだろうし、シンプルに欲しいです。
そこでいろいろ考えたところ、私なりに結論がでました。

まず努力では得られないものを得ることはできる。
今までは努力しても得られないものを生まれ持った才能と安直に考えていましたが、他にもあるのではないか。
例えば棚からぼたもち。
狙ってはないのに得られるもの。
これは努力しても得られないものではないか、そう考えたのです。
そして棚ぼたは努力と努力のかけ合わせからできる偶然の産物ではないか、と。
例えば何かに際して努力しているとき、得られたものは本当に狙ったものだけでしたか?
部活動でレギュラーを狙ったとき、レギュラーだけでなく他の物を得られませんでしたか?
例えば努力の仕方だったり、応援してくれる人の大切さだったり、切磋琢磨しあえる仲間だったり。
これらは狙って得られるものではありませんし、その内容も個々人によって違うと思います。
また、努力することによる副産物なのであって、努力して得られないものでもあると思います。
切磋琢磨しあえる仲間は狙って努力しても得られるものでありません。
切磋琢磨しあえる仲間を探しても他人からの理解は得られませんし、結局何に向かって切磋琢磨するのかという部分が一番重要なわけです。

これだなと思いました。
これで、私のような凡才でも、「誰でも努力したら得られるもの」に向かって努力することで「他の誰にも得られないもの」を身に付けることができるのです。
少しわかりにくいですね。
まあとにかく言いたいことはタイピングが速くなるように努力して得られた副産物はわかっていないってことです。
ちゃんちゃん。