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刹那的で目的のない演奏会は思い出にしかならない
刹那的な生き方全般に対して「なんか違うな」と感じているのだが、ここでは表現活動に閉じて綴りたい。
僕の言う「刹那的」には、二つの時間軸がある。一つは、まさに音を出すパフォーマンスや演奏会という単位。もう一つは、長いスパンで見た自分の表現活動という単位。
「音楽含めたエンタメ自体がそもそも刹那的だろうが」と自分でも思うので、その点は最後に書く。
刹那的演奏会は「思い出づくり」に過ぎない
例えば、初めましての人となんとなくライブ予定を入れてみる。何回もリハーサルするわけにはいかないので、お互いの持ち曲やサラッと書いた曲を持ち寄って、「初共演です!ぜひお越しください!」と告知をし、演奏会を終える。
「初めての組み合わせだったー!」と喜ぶお客さんもいるし、否定するわけでは全くないのだが、僕はその演奏会の先にさらに何かあってほしいと願ってしまう。
1回共演してみて「違った」という場合もあろうが、それくらいは事前にその人がどんな活動をしているかを見れば、どんな表現がしたいかを話せば、だいたい分かるんじゃない?という気もする。
とにかく、刹那の「思い出づくり」に終わらせない努力が必要だと思う。
あるいは、一回的ではあるけれど、感動が刹那で終わらないような入れ込み具合の演奏会であってほしい。全てが刹那な演奏会ほど悲しく、意味のないものはない。
(僕も刹那的な演奏が楽しいと感じていたこともあるのだが、振り返ると自己満足でしかなかったなと思う。自己顕示欲と言うべきかもしれない)
演奏会を「思い出づくり」に終わらせないためには「目的」が必要
「目的」を持たずに演奏会に挑むと、その演奏会はたいてい「思い出」にしかならない。
僕も付き合いや惰性で臨んでしまった演奏は思い出と化しているものが多い。
「その演奏会をなぜやるのか」という目的と、結果はどうだったのかという検証が必要である。(下記参照)
一回的な演奏会は採算性の低さが問題になる
刹那な演奏会に向けて、「持続するような感動を届ける」という目的を持つことは大変素晴らしいが、準備を頑張れば頑張るほどコストパフォーマンスが下がる問題がある。
これによって持続しなくなる例も多々あるので、素敵な演奏会はぜひ何度も、進化しながら、持続可能な形で繰り返しやってほしいし、「いいな」と思う人は全力で応援してあげてほしい。(「推しは推せるうちに推せ」だゾ☆)
刹那的な演奏会は、表現活動全体に紐付けて考えてみる
一回的な演奏会であっても、自分の表現活動においてどんな目的を持ちうるかを考えてみると、有意義に取り組めるかもしれない。
僕の場合は一回的で刹那な演奏の場であっても、「自分の表現活動にとってどんな糧にするか」という具体的な目的を持って、活動全体において刹那にならないようにしている。(下記参照)
いわゆるプロだろうがアマチュアだろうが、こういった活動を大切にしながら、色んな形で生計を立てていく時代なんだなと感じる。人生マジ長い。
誰もが、長い目で諦めず、自分の表現活動を続けていってほしいなと心の底から思う。
音楽含めエンタメ自体がそもそも刹那的コンテンツ
音楽は、時間芸術という意味でも、流行り廃りという意味でも、まごうことなき刹那的コンテンツです。
それでもなぜ続けるのかは既に書いた通りですが、刹那的コンテンツを刹那じゃない形で続けるという意味を説明しきれているかは、自分でもまだわかりません。整理しきれてないのかもしれません。
「ここまで演奏をやってきたから」と惰性でやってる可能性もゼロじゃないですね。
そもそも、非刹那的に継続できるのかどうか自体、人生をかけた検証なのかもしれません。
もうちょっと悩みながら続けていきたいなぁと思います。
お わ り