【エッセイ】一冊のノート
「こちらの商品、欠陥がありますのでお代えいたしますね。」
「いや、そのままで大丈夫です。承知の上で購入するので。」
とある100円均一の店。
ルーズリーフを求めて商品棚と対峙していた僕の目にそれは飛び込んできた。
5㎜の方眼ノート。
灰色の表紙は、下のほうに3~4cmほど破れが入っている。きっと誰が見ても口を揃えて欠陥商品だと言うであろう。
普通なら、店員さんが品出しをする際に気づいて、商品の取り換えを行うはずだ。破れたノートがそのまま放置されている状況の要因には、店員が見て見ぬふりをしていた or ノートが破れたてホヤホヤの状態だった の2つのケースが考えられる。
いずれにせよ、欠陥商品が放置されている、という状態は珍しい。
好奇心がそそられたことはもちろんだが、それ以上に傷を負った灰色のノートから感じる哀愁が愛おしかった。当初の目的だったルーズリーフそっちのけで、いつの間にかその欠陥商品に手を伸ばしていた。
話は記事の冒頭に続く。
レジ打ちのお姉さんも、変な客だなと思ったことだろう。
僕もそう思う。
その時、僕の脳内では不思議なパラドックスが繰り広げられていたからだ。
まず、僕がこのノートをあえて購入したのはそれに100円以上の「価値」を感じたからだ。
例えばこの僕の中の「価値」を120円と仮定してみる。そして次に「150」円で転売してみる。買う人はいるのだろうかと疑問に思われそうだが、私の考えでは、購入者はきっと現れる。なぜなら、僕が本来100円の「価値」だったその商品を自身の中で120円に値を釣り上げた時点で、トレーダーの理論では「その商品には投資価値がある」という結論に至るからだ。
では、僕が商品棚の破れたノートに魅力を感じず、その100円をルーズリーフに充てていたらどうなるだろう。
その欠陥商品はきっと誰にも拾われない。売らなければ利益を生み出せない店側としても迷惑。100円だった商品は0円、いや、それどころか処分費によりマイナスの価値になるかもしれない。
つまり、前述したノートの価値が吊り上がる現象は、僕がノートを手に取らなければ始まらなかった循環なのである。不思議な話だ。一冊のノートが一冊のノートであることには変わりないのに、こんなにも価値が異なるなんて。
そこまで考えれば、さらにその「不思議さ」という価値がノートの価値に加算されることだろう。このように、価値が価値を呼び寄せ、欠陥商品だったそのノートは、とうとう、果てしなく価値のあるノートになる。
このパラドックスは、人間社会の理不尽さとも通ずるものがあるかもしれない。
表紙が多少破れたところでノートの機能性に遜色はない。けど、同じ商品で状態の良いノートがあったら、わざわざ欠陥品を買うことはないよね。
それと同様に、仕事の出来に関わらず、顔、見た目の良し悪しで人生大きく変わっちゃうよね。
あるいは、最初に価値を見出す人がいたかどうかで将来価値が大きく変わるという点においても、人間と似ているかもしれない。
大谷翔平が自身の才能に早くから気づき努力を重ね続けていたとしても、もし花巻東高校で佐々木洋監督に出会っていなかったら、世界一の称号は得られなかっただろう。
ジャスティンビーバーが日本嫌いだったらピコ太郎は流行らなかったし、ジャニーさんに認められた郷ひろみさんに認められなかったら松田聖子は蒲池法子のまま一生を過ごしていたかもしれない。
きっとあなたも、そのうちの一人だ。
テレビで有名人を見ては「俺のほうがもっとヤバい」って舌打ちをするほどの、誰にも譲れない才能があるんだ。
けど、拾われない。誰も自分のことなんか見向きもしない。
いや、本当にそうなのか?
そうさ、自分には自分がいる。
誰にも評価されない自分の才能を、ぎゅっと抱きしめてくれる自分がいるじゃないか。
僕があのノートを手に取ったのも偶然ではなかった。
誰にも拾われない。見向きもされない自分を、救ってやりたかった。
救ってやりたかった。
もう、二度と諦めないと誓う。
自分のことを恥ずかしいなんて、一切思わない。
自分を選び取ったからには、自分を愛し続ける。
自分が自分を愛せるように、努力し続ける。
僕はもう、僕を諦めない。