新刊本「エイリアン3」は何も知らずに読むのが幸せ
<デビッド・フィンチャーの背信>
リドリー・スコット監督の『エイリアン』(1979)と、ジェームズ・キャメロン監督の『エイリアン2』(1986)は、密室ホラー映画からバトル・アクション映画へと色合いを変えたにもかかわらず、どちらもSF映画史上に輝く傑作たり得ている。
ところが、そのあとを引き継いだデビッド・フィンチャー監督の『エイリアン3』(1992)は、単に凡作であるのみならず、同シリーズのファンに対する背信ですらあった。
批判されるべき点は多々あったが、何より問題だったのは、『2』で圧倒的な人気を博した海兵隊員のヒックス、アンドロイドのビショップ、サバイバル能力抜群の少女ニュートらの登場人物を、序盤であまりにも、あまりにもあっさりと退場させてしまったことだ。それくらいなら、彼らとは完全に切り離された舞台を設定した方がまだしもよかった。
代わりにストーリーの中核を担ったのは――主役のリプリーを別にすれば――性犯罪で収監された監獄星の受刑者たちだ。これでは感情移入などできようはずがない。
そんな登場人物たちに合わせて、作品全体に通底するムードも陰湿・不快だったし、クライマックスのおとり作戦も状況がひどく伝わりづらかった。フィンチャーもまだまだ経験不足だったということか。
<正史たる第3作>
・・・と、前置きをした上で言うけれど、ここで書評する「エイリアン3」は、映画版『エイリアン3』のノベライズ本ではない。断じてない。むしろ映画版『エイリアン2』の正統的な続編と言うべき一編だ。
ただ、その評価となると、この本が書かれた経緯を知った上で読むか否かで、ずいぶん違ったものになるように思う。この点は、またあとで詳述します。
私自身は、なぜこのタイミングでエイリアン本が出るのかといぶかしみつつも、単純に「新刊本なんだから最近書かれたんでしょ」と思って読んだ。
すると、今や古典となった映画版『エイリアン2』を、著者が隅々まで復習・研究し、その魅力を最大限取り入れようとして書いているように見えるんだよね。フィンチャーの唯我独尊ぶりとはエラい違いだ。
本書の舞台は、イデオロギー的に対立する2つの巨大宇宙ステーション。ゆえに宇宙飛行士や軍人、わずかな入植者しか登場しなかった映画版の1~2作目に比べて登場人物が圧倒的に多く、その立場、職業、国籍、経歴、性別も実に多彩だ。
著者は良い奴・嫌な奴が入り交じるそれらの人物像を巧みに描き分け、エイリアン相手のサバイバルの中で、駒として生き生きと動かしていく。
エイリアンもまた、両陣営の手でクローン化されたり、遺伝子操作されたりして、急激な進化を遂げる。「フェイスハガー」から「チェストバスター」へという従来の成長過程の枠を易々と打ち破り、新たな繁殖方法を獲得したり、果ては植物とまで融合したりする始末。
そこまで何でもありになると、かえって少し鼻白んでしまわなくもないが、その殺戮能力と強酸性の体液に対する恐怖感はいささかも減じない。
本書で何より特筆すべきは、しかしヒックスとビショップが堂々の主役を演じ、安全な場所を求めて彷徨するステーションの住民たちを、創世記のモーセのごとく導くことだ。
しかも、プロットの端々で、映画版『エイリアン2』に登場したバスケスやゴーマンなどの個性的な海兵隊員への追慕が、あるいは彼らの口にした名セリフが、回想として差し挟まれる。
かつて『2』に胸を熱くした過去を持つ読者なら、誰もが快哉を叫びたくなる見事なオマージュであろう。少なくとも、読んでいる最中にはそう思えた。
<覆る好印象>
ところが、だ。巻末の解説を読むうちに、その好印象が次第に色あせてしまうのですよ。
早い話――私の思いこみとは違って――本書は最近書かれたものではなかった。いや、サイバーパンク作家のパット・カディガンの手でノベライズされたのは最近らしいが、その元になったのは、映画版『エイリアン3』の製作過程で、ウィリアム・ギブソンが1987年に書いた――そしてボツになった――脚本だった。
その事実を知った上で読み直せば、本書のリプリーが(大ケガを理由に)主役の任を果たしていないのは、当時シガニー・ウィーバーが『3』への出演に前向きではなかったためだと思われる。
シリーズの定番たる(悪く言えばワンパターンの)ストーリー運びも、最近書かれたものだと思えば「おお、シリーズのエッセンスを忠実によみがえらせてくれたね」と感謝すら覚えるけど、87年の視座に立つなら「ほとんど『2』の焼き直しで、新味が感じられないね」という印象にならざるを得ない。これではボツにされるのも無理はないよな。
大量に取りこまれた『2』の名場面や名セリフに関しても、果たして「三十数年前の傑作映画を復習・研究した上でのオマージュ」と見るべきなのか、「鑑賞したばかりの前作を書き写しただけ」と見るべきなのか。
このあたりは、どこまでがギブソンの脚本で、どこからがカディガンのノベライズなのかを知り得ない以上、判定の下しようがない。
とにかく1つ言えるのは、本書が好意的に読まれるにしても、否定的に読まれるにしても、それはひとえに映画版『エイリアン2』の絶大なる魅力が下敷きになっていればこそだということですかね。
「エイリアン3」
ウィリアム・ギブスン【著】
パット・カディガン【著】
入間眞【訳】
(竹書房)