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クラシックを聴くと寝てしまうあなたのための『TAR/ター』の鑑賞法

 感想や批評を書く とっかかりが十人十色になりそうな一作。上映時間158分もの長尺であるところにもってきて、クラシック音楽への造詣や一流オケの“楽団内政治”についての知識も、人によってかなり違うでしょうからね。
 音楽には素人の筆者の場合、最も印象深かったのは、割に早い段階で登場するロシア人チェリストの「異物感」だった。

 おそらく確信犯的な作為だと思うが、トッド・フィールド監督は本作の出だしをドキュメンタリー・タッチで撮っている。
(1)細かい文字を画面一杯に詰めこんだ特異なオープニングタイトル。そこに映像なしで挿入されるペルーの先住民語らしき不思議な歌声(それも単なる歌声でなく、その録音場面であることを示唆する音声が入っている)。
(2)ヒロインである女性指揮者リディア・ターの多方面にわたる業績を蕩々と並べ立てる司会者。それに続くターへの公開インタビュー映像。
(3)楽団の研修所(かな?)におけるターの講義風景。癇に障った1人の男子研修生を直接・間接にパワハラしながら、段差のある階段教室を縦横に歩き回るターをとらえた長回しの映像。
 こうした導入部は、一見すると、説明的なナレーションを廃したタイプのドキュメンタリーそのもの。「ケイト・ブランシェットが演じる架空の指揮者」ではなく、「リディア・ターという実在の音楽家」がそこにいるような錯覚さえ覚える。堅実な演技者ではあるが、外見的な個性の薄いブランシェットという女優の持ち味も、その点には一役買っているだろう。

 そこに闖入してくるのが、若きロシア人チェリストのオルガ(ソフィ・カウアー)だ。彼女の登場を触媒に、それまでのドキュメンタリー・タッチが、一気に「ドラマ」に転じていくんですね。
 オルガの初登場シーンからして、すでにそう。トイレの鏡の前に立っていたブランシェットが、あとから入ってきたカウアーを目で追う物欲しげな風情といったら。すでに同性の第1バイオリンと「夫婦関係」になっているターの、自身の欲望に対する正直さが垣間見える瞬間だ(図抜けた才能を持つ人物って、往々にしてそういうところがありますよね)。
 直後の覆面オーディションの審査中に、候補者の1人が「トイレで目をつけたあの若い女」であることを、ある手がかりから見抜くター。そのあと彼女が取るある行動は、もはや客観的なドキュメンタリー・タッチで描かれた人物のそれではなく、フィールド監督が随意に作った劇中人物のそれだ(当たり前だが)。

 もう一例。
 前述の導入部を見ている間に、クラシック音楽にはとんと縁のない無教養な私たちの頭にも、音楽を語る時には「**楽団が**年に**ホールで**の指揮の下に演奏したマーラーがどうたらこうたら」と語るものだという音楽家たちの常識やペダンティシズムが次第に刷り込まれていく。
 オルガはその点もまた、あっさりとぶっ壊すのである。音楽界における権威を笠に着てオルガに近づこうとするターに対し、前記の男子研修生のように下手(したて)に出ようとする態度など微塵も見せず、オルガはいとも辛辣かつ無造作に冷や水を浴びせかける(その具体例を列挙したくてウズウズするが、予備知識なしで見た方が絶対に面白いので、ここでネタを明かすことは控えます)。
 フィールド監督が巧妙なのは、オルガがただの「現代っ子」なのか、ターを破滅させるべく運命の手によって送りこまれた「死の天使」なのかを、徹底して曖昧にしていることだ。アロノフスキーの『ブラックスワン』で言えば、ちょうどミラ・クニスの役回りなんですね。

 いずれにしても結果は同じ。人間関係を含めてあらゆることを意のままにし、結果的に少なからぬ人々を傷つけてきたターは、かくして初めて意のままにならない状況に接し、運命の階段を踏み外し始める。
 同じくブランシェット主演の『ブルージャスミン』は、まるで中身のないセレブ女の転落を描いたシニカルコメディだったが、本作のヒロインは なまじ才能に恵まれているだけに、転落ぶりがいっそ痛々しい(若者なら「イタい」と表現するところか)。
 さて、これは悲劇なのか、応報なのか、それとも喜劇なのだろうか。

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