自由の行進
人は自由であり、また自由である人を尊重する。そのような思想が蔓延している現代が行き着く場所は一体どこなのだろうか。長年の圧政を経て、民衆はその抑圧の反動で「自由」を強く求めた。ある人は文で、ある人は絵で、またある人は人を主導して「自由」から得た自己を主張した。そして、抑圧時代から100年が経つ今では、表現の自由・思想の自由・信仰の自由が急速に推し進み、全ての事柄において多様性が生まれた。
しかし、このまま「自由」を推し進めるとどうなるにだろうか。人は物事を良し悪しでは判断しなくなるのではないだろうか。もしかしたら、多様性の正義の元、批評機能を失うのではないだろうか。
多くの教育者はこう言う「色んな人がいて、その数だけ色んな考え方があるのだから、その人の気持ちになってみるというのはとても大事な事だ」と。だが、自由が飽和すると、全てを尊重すること絶対となり、物事を善悪で判断する場が無くなってしまうのではないだろうか。そして、この審判の停止により、自己判断能力を失うのではないだろうか。思考の停止は時間の停止、種の進化の停止、存続の諦めとなり、やがては生への執着を薄らえさせる。
我々はいつでも環境に順応し、成長してきた。その果てに、自身を律する法、制度で人を縛り、全ての人に「世界」を認識させる程の社会がある。自由の行進はもう誰にも止めることはできないのであろうか。自由でいたいという気持ちと、自由の飽和を防ぐために何かで人を縛るべきだと考える気持ちが矛盾を生む。道徳の過渡期・時代の過渡期に生きる者の葛藤とはこのことなのだろうか。今なら『斜陽』のかず子の気持ちが少しわかる気がする。