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ホイチョイが仕込んだ文脈の読みこなされなさに恐怖する

 「皮肉を皮肉と読み解けない人」というのは結構いて、別にだからアスペは何だという話ではないのですが、通読すれば全く逆のことを言っているにも関わらず特定の文章だけ読んで噴き上がる人というのは書き手として困ります。

 コンテクスト(文脈)を読んで欲しいというのは高いレベルの相談になってしまったのは、別に読者に読解力が無いからではなく、ひとつの記事や表現に対して多くのアテンションが払われなくなった現代の文化の消費具合にもかなりよるのだと思います。

 以前、私も「竹中平蔵批判」の記事を書いたところ、コンテクストを読み取られずに「山本一郎は新自由主義者だ」「竹中平蔵シンパだ」「山本太郎が寝返った」などと散々なリアクションや抗議メールを頂戴したことがあります。真正面から批判すると角が立つ案件ほど、文脈で読ませて理解してもらうのもまた書き手のレトリックだったはずが、文脈ではなく文章を読まれてしまうのは書き手としての能力がなかったからだ、と反省するほかありませんが、私は竹中平蔵支持者ではなく、山本太郎でもありません。

 で、いまさっきこんな記事が流れてきて、そういえばホイチョイあったなあという寂寥感とともに、「あ、いまの人が流し読みしたり、軽く目を通すとあの文脈は理解されないのだ」という驚きを覚えます。もちろん、あれはあれでハイコンテクストのネタなので、あれを正面から読んで「書店員の花田菜々子が、その衝撃を綴る」って言われるとこっちが衝撃を受けるんですよね。

 要するに「不倫の流儀を語る」ことで、その不倫をしているおっさんがいかにダサいかを共感とともに揶揄するのが本書であるというのが、おそらくは男目線から見た本書の読み解き方だと思うんですよ。身の回りの不倫男女を見て、見て見ぬふりをしながら本書に目を通し「あー、あるあるw」と膝打ちしながら半笑いになり、サッと読んで捨てる的な。

しかしこの本全体を通して私が感じていたのは「けしからん」というよりは「かわいそう」という気持ちであった。この本が無名のミソジニー老人によるものであれば、自分もここまでの衝撃を受けなかったように思う。一時は時代を掴み、時代をひっぱっていた人でさえも、こんなふうに老化して激しいミソジニーを撒き散らすようになってしまう、そしてまったく今のトレンドを把握できなくなってしまうのだというショック。単純にフェミニズム的な怒りだけではなく、そんな驚きと寂しさが胸に広がった。

 あるいは、不倫をしたくてもできなくなった老境のクリエイターの達観ぶりであるとか、時代の読み方の一つとして不倫の捉え方が如何に変遷したかといったところを見て取るための内容だと思うんですよ。

 それに対して「ミソジニーを撒き散らす」という話は文脈ではなく文章を読んでいる典型であって、まあミソジニーと批判するのであればそれはどうぞという話でしかなく、いや、そういうイケてないおっさんが不倫をしていてダサいという珍獣図鑑的な読みときの補助線を持っとらんと確かにそういう書評になるんだろうなあと。

その点では、上野千鶴子さんの不倫論を花田奈々子さんがどう思うのか、また、例の伊藤春香(はあちゅう)さんと幻冬舎でやっていた往復書簡の内容が気になったりもして、感じることはいろいろあるんですけれども、この手の出口のない議論ってしんどいなあ。 

 売れた『男のトリセツ』についても、またホイチョイ本書についても、男女関係を緊張感のある扱い方をした内容は賛否両論が出るのも致し方ないだろうと思います。嫌悪感もって読み進めてしまうと、通読してなおあとがきの内容が頭に入らなかったりとかね。

 最近ではサブスクで音楽を聴くのが流行ったために、ただでさえ短くなっている前奏が、いまでは平均5秒になり、頭からサビメロで入れとか言われる時代ですから、やっぱり脊髄反射してしまうこともまた多いのでしょう。

 というわけで、最後に皆さん、ご唱和をお願いしましょう。

「面白いと思いますよ。ホイチョイは嫌いだけど

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神から「お前もそろそろnoteぐらい駄文練習用に使え使え使え使え使え」と言われた気がしたので、のろのろと再始動する感じのアカウント