芳沢光雄さんのトンデモ記事で教育行政側が騒然としている件で
芳沢光雄さんの指摘は制度論に原因を求めるもので、端的に言えば与太話なのですが、信じる人がいっぱい出て「いまの大学はどうなってるんだ」的な話がたくさん来ているので簡単に解説を試みます。
一応元記事をリンクしておきますが、内容はまあなんというか読むに堪えない内容なのでご参考までです。
まず、「塩25グラムを水100グラムに溶かすとき、食塩水の濃度を求めよ」で、次のように書かれています。
いや、そう答える大学生は、どこの大学で学ぶ学生さんで、何%がそう答えるって話なんだよ…。もちろん、全体のグラム数は125gになるのだから、25g溶かしたら20%なのだが、ここで問題となるのは「そんなことも分からないのか」について
教え方が悪い→そういう教え方をした中学高校の教師が悪い
と持っていく論理展開に問題があるわけです。
もちろん、そういう量の概念と割合を教えられない、暗記で何とかさせようとした結果、応用の効かない大学生が誤答する可能性を指摘するところまでは良いのですが、↓
まあ、こんなことはないわけです。教員免許更新制が導入されたら教え方が悪くなって学生が一気に劣化して食塩溶かした溶水の濃度計算が分からなくなるとでも本当に思ってるの?
広く言えば、少子化が進展したけど大学の定員や入学者数はあまり変わらないから、大学に進学できるような素養のない学生でも進学できるようになる全入時代を迎えました、というのがせいぜいであって、これは要するに境界知能の子どもたちが本人の意欲か親の見栄か分かりませんが基礎学力を修めることなく最高学府であるはずの大学学部に入っちゃう、入れちゃうことの問題ですね、本来は。
ここでなんで公教育の能力がDISられているんですかね?
ケーキの切れない非行少年たちの問題も、人口の一定の割合確実にいる、発達障害とまでは言えないけど社会生活を送るのにカツカツなレベルの境界知能の子どもをどうするかの話であって、そういう子どもが少子化によって能力の不足が明らかであるにもかかわらず大学に入れてしまい、溶液濃度も満足に計算できない計量能力しか備わらないのは教育環境の問題と一概に言えるかというのは常に問われなければならんのです。
朝日新聞の土居新平さんの出色な取材記事で、日本銀行総裁に就任した植田和男総裁が、自身が教授をお務めになった共立女子大(東京都)で、学生からの評価が「最低」だった記事が話題になりました。教育政策を見ている者からすれば、悲惨なあるある過ぎて涙を枕で濡らすレベルでヤバい話だったわけですよ。
正直、歴代の日銀総裁の中で昨今もっとも優秀で柔軟と称される植田さんが、クソFラン女子大に通う境界知能気味の駄目女子大生の目線に合わせて最大限工夫して授業をやったのにそれでも高尚すぎて「このハゲ偉そうなこと喋っててちっとも理解できん」と受け止められ低評価という、明らかに出会ってはいけない運命のいたずら的な爆裂的状況であったことは容易に想像できます。
でも、それもひとりの国民であり、大学生であり、その資質・能力を生かして社会に出て働き、家庭を築くべき存在なのですから、単純に仕組みの問題と切って捨てて批判すればそれで良い、という問題でもないのです。
また、行動遺伝学的には食塩水の濃度は計算できないけど空間認識能力に優れていたり、全体の構造把握に能力のある人は少なからずいます。食塩水の濃度計算は分数計算と同じく知能(FSIQ)のいちカテゴリーに過ぎないワーキングメモリーと呼ばれる受験や学力テストの点数に大きく影響を与えるひとつの能力に過ぎません。
しかし、社会ではこれらの能力よりも、いわゆる地頭の良さであったり、物事を計画立てて考える能力だったり、相手の気持ちを斟酌して適切な行動を取ったりする、ワーキングメモリーとは別の能力で生きている社会人がたくさんいます。いまパッと「100gの水に25gの塩を溶かしたら何%の塩溶液ができますか」と聞かれて25%と脊髄反射で答えてしまう社会人も少なくなく、普段使わない計算を含めた量的概念が分からないのも普通なんですよ。
こういう問題について、学級運営を担当する初等中等教育や高校教諭の教員研修の問題に矮小化し、制度の問題にすり替えて論じる有識者が教育実践を語っているのは問題です。さらに、「ばらばらに話しているだけのところが多く」とか「断言できる」とか食塩水以前に数的根拠が非常に薄弱で、要するに芳沢光雄の主観で教育現場がDISられているだけなんじゃないかと思うんですよね。具体的に、それなんかデータがあるんですか。
良くも悪くも教育行政においてこういう主観的な観念論が跋扈した結果、俺が気に入る気に入らないで現場が振り回されて、あたかも日本の教育の失敗で大学に馬鹿がたくさん入ったかのような誤謬が主張されるのは問題であろうかと思います。言論の自由が日本にはありますので、別に記事を撤回しろとまでは言いませんが何言ってんだこいつ老害めと思うのは私の自由とも思いますので重ねて主張しておきます。
蛇足ですが、昨今そういう全入時代の日本の大学に、熾烈すぎる受験競争で円安もあって学費が格安な日本の大学を目指す中国人の若者が増えていることの是非なども話題になっています。また、大学院や研究機関・シンクタンクなどで、中国人留学生や研究性が大量に入り込み、いわば日本の税金・国費で中国人を教育し、中国社会や中国企業の利益に直結するような仕組みが放置されている問題が出始めて、そろそろどうにかしないといけないという話はあります。
それもこれも、人口動態にあわせて相応しい日本人の若者の数に合わせて大学設置数や受け入れ定員を調整せず、大学の統廃合を行ってこなかった教育行政の怠慢の面もあります。他方で、大学の数が減ればちょうど就職氷河期に当たる大学教員が大量にリストラに直面し、科研費の減少も伴って我が国の学術研究が低迷したままなかなか回復しないという別の構造的問題があることも指摘されます。これらは計量的に政策実現されるべきものであり、しかし大学は学校法人の経営状態も含めて文部科学省がそれを政策的に必要だからと強要して統廃合できるものでもないことを考えると、この辺は割と待ったなしの岐路に立っている、とも言えます。
芳沢光雄さんにおかれましては、境界知能の子どもの問題を学校教育の現場に押し付けるのではなく、教育行政全体の課題についてもう少し意味のある議論を先導して欲しいと心から願っております。
EBPM的な詳細についてはメルマガにまとめて書く予定です。画像は「日銀総裁になる偉大な人物に師事するため大学に入ったけど教室がどこにあるか分からなくて外で迷っている境界知能の女性」です。
神から「お前もそろそろnoteぐらい駄文練習用に使え使え使え使え使え」と言われた気がしたので、のろのろと再始動する感じのアカウント