見出し画像

静 霧一 『瘡蓋』

 白い朝日の木漏れ日を感じるたびに思い出す景色がある。

 寝心地の悪い背もたれ、かび臭いエアコン、そして塩辛い香り。
 砂のこびりついた車窓から見えた、水平線に浮かぶ暁の斜光。
 2人分の温度が狭い車内を温め、こぼれた息は内側を白く結露させていく。

 そのせいか、せっかくの綺麗な景色も、水滴のフィルターに乱反射してぼやけている。
 そんな白い車窓から見た景色は、あまりにも幻想的で儚いものだった。

 私は寒さに凍える小鹿のように体を強張らせ、悴んだ指先で彼の体温を探した。
 微睡の中で彷徨う指が、ふいに彼の柔らかなベルガモットの香りに包まれる。
 その温かさに安心したのか、私は彼の指を握りながら、また睡魔に身を委ねた。

 細く開けた瞼から見えた彼の唇は、少しだけ微笑んでいるようにも見えた。

 ◆

 一目惚れ。
 そんな言葉、小説の中の言葉だと思っていた。
 目と目が合って、不確かな運命というものを感じて、心までも奪われる。
 一目惚れをする人間というのは、自分という存在があまりに希薄なのか、狂信的な運命論者なのか、とにかく私には無縁な人種であるということを、理解もせず決めつけていた。

 ある晴れた休日のこと。
 私は近くに出来た小洒落たカフェでランチを食べていた。
 休日ということもあり、店内は多くの人で賑わっている。
 誰もかれもが向かいの誰かと仲良さげに談笑している姿を見て、少しばかり寂しさを覚える。

 やはり、私は来るべきではなかったのだろうか。
 水だけの置かれたテーブルの木目を見つめる。

 周囲の言葉が溶け始め、ちょうど雑音となりかけた頃、私の目の前にパスタが一つ差し出された。
 赤く肉厚なトマトが散らばり、ほのかにチーズとバジルの香りが鼻を突く。

 私は視線を上げた。
 華奢な白く細い腕、浮き出た青い血管、目を隠すほどに伸びた前髪、そこから見える透き通る黒い瞳。
 少し物悲し気な、整った男の子の顔がそこにあった。
 その瞳に私は思わず惹きつけられ、唇が震えた。

 私はそれから、何度もカフェに通った。
 まるでボールを拾うことを覚えた子犬のように、何度もそこまでの道を往来した。
 互いに顔を覚え、目が合うたびに微笑みあう。
 そしていつしか、一人で歩いていた帰り道を、彼の手を握りながら帰るようになった。

「ねぇ、柊也」
「ん?」
「そろそろさ―――」

 私はベッドの上から、彼に呼びかける。
 彼は、読んでいた本に栞を挟み、椅子をくるりと机から私へと向け、立ち上がった。
 そして私の隣に座り、優しく手を握った。

「ごめんな、まだ―――怖いんだ」
 彼の手が私の手を離れ、背中へと回る。
 そのまま彼はその細い腕で優しく私を抱きしめた。

「ごめん―――」
 彼はただ、そう呟くばかりであった。
「ううん、大丈夫だよ」
 私は、小さく頷いた。
 そしてお互いの羽を抱き合うようにして、ベッドに横になった。

 隣の彼は寝息を立てている。
 その顔が愛おしく思えば思うほどに、満たされぬ愛の虚無感が体の内側を掻きむしる。
 愛の言葉だけで、愛が満たされるのならどれだけ幸せだっただろう。

 体を重ねて、彼の全てを感じたいはずなのに、彼は一向にその気を見せない。
 私はそんなにも魅力に欠けているのだろうか。
 心の中に満ちた白い靄が肺の中へとたまり、息苦しさと熱病が私を狂わせる。

「奏―――」
 彼は眠りながら私の名前を口にした。
 私は思わずぎゅっとシーツを握りしめた。

 ◆

 彼はいつもベルガモットの香水を漂わせていた。
 だが、時より、煙草の匂いが混じっている。
 私の鼻は敏感にもその他人の匂いに気が付いていた。

「ねぇ、柊也。誰といたの?」
 彼の挙動が一瞬止まる。
 そして一息ついたタイミングで「友達」とだけ答えた。
 彼の口から嘘の一片が、私の中で灰となり重く山積していく。

 そんな疑念が渦巻く私の指が、そっと彼のスマホに手を伸ばした。
 ちょうど、彼宛てのメッセージが届いており、私は思わずそれを開いてしまった。
 そこには、「ありがとう、昨日は燃え上がったね」というメッセージと、盗撮されたであろう彼との口づけをしあう男の姿が映った写真が添付されていた。

 私は思わず絶句した。
 混乱が手が震え、漏れ出る嗚咽を手で押さえた。
 きっと彼はこの男に抱かれている。
 私が藻掻くほどに欲しがる愛を、この男はいともたやすく彼から貪り尽くしている。

 私は怒り狂った。
 業火が血を煮やし、握った拳に血管がはち切れんばかりに浮き出る。
 体を求め合わない愛こそが純愛とばかり思っていた。
 そんな価値観は木っ端微塵に吹き飛び、私は力なく膝から崩れ落ちる。

 窓枠からは黄色い満月が見切れていた。
 私はそんな月を見て、独り、獣のように吠えた。

 ◆

 彼はある日、私をドライブに誘った。
 目的地は、知らない。
 ただ宛てもなく彼は車を走らせた。

 私の心の中は、透き通った純愛などとは程遠い、紫色の疑念で渦巻いたままである。
 彼は運転席から窓を開け、外にぶらんと手を下げ、外の風を掴もうとしていた。
 子供のように笑う彼に、私は「餓鬼か」と一瞥した。

 そんな苛々が伝わったのか、彼は笑うのをやめる。
 そしてどこか遠くを見つめながら、物悲し気な表情を浮かべた。

「止めて」
 真っ暗の夜の闇の中で、車が止まる。
 いつの間にか、ぽつりぽつりと雨が降り始めていた。

「ごめん」
 彼はふいに、そんな言葉をこぼした。

「何よ!ごめんって!あんたそれしか言えないの?ねぇ!何のごめんなの?私を傷つけたから?私に嘘ついてたから?ねぇ、答えてよ!」
 私は無我夢中で叫ぶ。
 怒りが頂点に達し、それを覚まそうと涙がこぼれ始めた。

「ごめん……」
「もう知らない!」
 私は無理やり車の鍵を開け、外へと飛び出した。

「待って!」
 彼も私の後を追って外へと飛び出す。

「離して!」
 彼は嫌がる私を力強く抱きしめる。

「ごめん―――」
 力強く感じていたはずの彼の腕が震えていた。

 きっと彼も私が理解できない葛藤の中で、戦っている。
 本当であれば、彼を成す感情は彼の物であるはずなのに、そんな彼を理解しようともせず、ただ自分を満たしてくれる愛ばかりを彼に求めていた。

 子供は私のほうだ。
 彼の優しさに強欲となり、我儘ばかりを並べ立てていた。
 彼の透き通るような白い肌には、私には視えない傷跡が至る所についている。

 雨に打たれ、びしょ濡れになりながら、私は彼に見えないように泣いた。
 そして彼が抱きしめてくれた腕をそっと握った。

 ◆

 運命とは、悪戯に人を傷つける。
 神様なんてものは、本当は性悪な生き物で、人の悲しみで生き永らえているんじゃないかと思うほどだ。

 私は、彼に渡すはずのお昼のサンドイッチを忘れてしまい、仕事先のカフェに向かった。
 美味しいと言ってくれるだろうか。
 息を切らしながらカフェに到着し、外から店内を覗く。
 そこにはモップで床を掃除する彼の姿があった。

 ふと、ガチャリと準備中の店内に入る人影があった。
 誰だと思い、私は身をひそめる。
 それは、少し色黒で、筋肉質の長身の男であった。

 その男は銀色のキャリーケースを転がし、彼のもとまで近付く。
 そしてあろうことか、彼の唇を強引に奪った。
 そんな彼はその強引さに嫌がることなく、その男のキスを受け入れる。

 私は指が力をなくし、ぼとりとサンドイッチが地面へと落ちる。
 彼の全てを受け入れたいと思っていたが、それは私が描いた甘い理想論であることを突き付けられた。

 私は走りながら、彼と住む部屋へと戻った。
 もう何もかも壊れてしまえ。

 一匹の愛の獣が、爪を立てながら、狭い巣の中で猛り狂う。
 思い出の写真を破り捨て、花瓶を割り、枕を引き裂く。
 彼が部屋へと帰ったころには、もはやそこには安らげる場所など、どこにもない状況であった。

 私と彼の目が合う。
 そして何かを悟ったのか、彼は荷物を玄関に置き、静かに部屋を後にした。

「なによ、なによ!なによ!」
 私はそんな反応の彼に、余計に混乱する。
 もうごめんの一言もない。

 本当の別れというものを直感した。
 彼が最後に残した「いってきます」という言葉の残響が、耳の奥で響き渡る。
 本当の別れというのなら、彼にきちんと真実を話してもらいたい。

 私は靴を履き、夜の街を走った。
 彼はどこへ行ってしまったのだろうか。

 ふと、ガシャンという衝突音が、路地裏の道から聞こえた。
 あまりにも大きい音に、私は思わず身を強張らせる。
 その衝突音のほうへと、私は恐る恐る足を進める。

 立ち上る白煙、反転する銀色の車体。
 フロントがぐしゃりつぶれ、見るも無残な彼の愛車の姿がそこにはあった。
 私は声を失い、震える足でゆっくりとその車に近づく。

 外灯が一本、電柱柱を照らしている。
 そこにはべっとりと赤い血がついており、車から投げ出されたであろう彼が、電柱の足元で真っ赤に服を染めながら倒れていた。

「あ、あぁ、あぁ」
 私はその場で吐いた。
 胃液も、言葉も、愛も、思い出も。

 私は、彼が好きだった。
 好きだからこそ苦しかった。

 きっと、彼もまた苦しかったのかもしれない。
 私はそんな彼の苦しみを分かってあげることは出来なかった。
 どちらも幸せになれないことは、私も彼も、言葉にせずとも感じていた。

 だけど、こんなにも呆気なく死んでしまうんなんて。
 彼は幸せになるべきであった。
 早く、私が彼と別れていれば。
 彼の優しさに甘えてなければ。
 もっと、私が大人であったならば。

 気が遠くなる中、けたたましく鳴り響くサイレン音が聞こえた。
「―――ごめんね」
 私は小さく呟き、意識を失った。

 ◆

 カーテンを開けると、目を眩ませるほどの朝日が差し込んだ。
「おはよう」
 私は、朝日に向かって呟いた。

 きっと、彼はいつかふらっと戻ってくるようなそんな気がしてたまらない。
 ベットの上に、白い枕が2つ。
 帰りを待ちわびるように、寄り添いながら並んでいた。


いいなと思ったら応援しよう!

静 霧一/小説
応援してくださるという方はサポートしていただければ大変嬉しいです!創作費用に充てさせていただきます!