A3052の神様(3)
「なにをぼーっとしておる」突然の声に驚き、辺りを見渡す。
どうやらその声はベッドの上からしているようで、ベッドの上を覗くと神が寝ころびながら漫画を読んでいた。
「神様ここでなにやって―――」
そう口にした瞬間、神様を通じて願いを言った記憶が一気に駆け走った。
そうだ。私は彼に謝るためにここに来たんだ。
「これはおぬしの記憶じゃ。ただ魂と話すだけじゃ味気ないだろうと思ってな。特別にあの時を再現したのじゃ」
神様はどや顔をする。褒めてほしいのだろうか。
私は神の頭を撫でながら、当時の記憶を思い返した。
私はここで幼馴染の青山 隆司と受験勉強をしていた。
私と隆司は同じ大学の受験を考えていたため、受験勉強をするには何かと都合が良かったのだ。同じ大学というのは本当にたまたまで、私も聞いたときは運命と思ってしまうほどに驚いた。
事の発端は、大学に入学した後に一人暮らしをしたいという隆司の言葉からだった。
私もちょうど家を出たいと考えていたため、一緒に暮さないかと提案をした。私は幼馴染の隆司であれば断ることはないだろうと思っていたが、彼は一緒に暮すことを拒否した。私がその理由を問い詰めると「教えられない」としか返さない。私はへそを曲げて、テーブルの上に置いた参考書やらを隆司に投げつけた。
有頂天になっていた私は、少し調子に乗っていたのかもしれない。隆司は私の癇癪に嫌気がさし、そのまま私の家を後にしたのだ。
誰にだって何か言えない事情なんて山ほど抱えているはずなのに、幼馴染というだけで全てを教えてほしいという私のわがままを誰が好いてくれるのだろうか。
私はずっと隆司に想いを寄せていた。ただそれを口にすることは出来ないままでいた。
そして隆司は今日の20時45分に自宅付近の横断歩道で信号無視をしたトラックに撥ねられ死んでしまう。
「どうした?このままここにいても時間がないぞ?」
神様の一言にハッとした。私は携帯片手に制服姿のまま、家の階段を駆け下りる。神様は移動が面倒なのか、私の肩に勝手に乗り付け、頭に体を持たれていた。
「沙希?そろそろ夕飯だけどどこに行くの?」
台所からちょうど出てきた母に呼び止まられる。
私はぎくりとし、玄関前で硬直した。
神様が見られるとまずいと思い、頭の上を必死に隠そうと手をわちゃわちゃと動かす。
「どうしたの?頭に何かあるの?」
母が私の行動を不可思議に思う。
「あれ?神様が見えていない…」
「当り前じゃ。おぬしの記憶だと言うたじゃろう。わしはこの時には実在しないのじゃ。見えなくて当然じゃ」
神様に言われ、ここが自分の記憶であると再認識する。
「コ、コンビニに行ってくる」
ここ記憶の中で嘘をついてもああだこうだ言われることはない。私は母に嘘をつき、振り向くことなく玄関の鍵を開けた。
「早めに帰ってきなよ。気を付けてね」
母はそれだけを言い残し、台所へと戻っていった。
私は嘘をついた少しの罪悪感を奥歯に噛みしめ、勢いよく玄関を飛び出した。
自転車で感じる10月の夜風は少しだけ肌寒い。
私は息を上げながら、住宅街の夜道を自転車で突っ切っていった。全力で自転車を漕いだおかげか、15分ほどで隆司の家の前に着いた。
2階の隆司の部屋にはカーテン越しに明かりがついていて、まだ生きていることに安心したが、それと同時に緊張もした。
このたった一度の機会を前にして、私は思わず怖気づいた。
「怖いか?」
神様は私に尋ねた。
「……うん」
私の手は冷や汗でぐっしょりと濡れている。
謝りたいと口にはしているが、いざその機会を訪れると足がすくんで動けなくなってしまいる自分を恥じた。
「仕方ないのう。ほれ」
神様はピョンと私の肩から跳び、そのまま宙に浮きながら、隆司の家のインターホンを鳴らした。
神様のまさかの行動に驚いたと同時に、無理やり覚悟を決めなければいけない焦りを感じた。
「はい?」
インターホンから女性の声が聞こえた。隆司の母の声だ。
「あ、あの!夜分にすいません!三上沙希です!」
「あー!沙希ちゃんね!隆司呼んだほうがいい?」
「は、はい…お願いします」
インターホンが切れ、私はごくりと唾を飲んだ。
2階の部屋の明かりが消え、家の中から階段を駆け下りる音がする。
そして家の鍵が開き、扉の向こうから隆司が現れた。
隆司が生きている。死んでしまったはずの隆司が生きている。
これまでの隆司との記憶が走馬灯のように頭の中へと流れ始め、私の感情はいともたやすく瓦解していく。
感情という支えがなくなってしまった今、私は2本の脚で立つ力さえ抜けてしまい、膝から崩れ落ちてしまった。
「だ、大丈夫か沙希!」
隆司が慌てて駆け寄り、私に顔を近づけた。
ぐちゃぐちゃになった顔なんて見られたくなかったけど、それを庇う力も入れることが出来ずに、真正面から向き合ってしまった。
「隆司…!これから外に出ちゃダメ!あなたは―――」
私がそう言いかけた途端、喉から言葉が消えた。
何か異物がつっかえて言葉の道を塞いでいる感覚だ。視線をズラすと神様が口元で指を立てているのが見えた。
「現世の死の記憶を伝えてはいけない」
神様との約束を思い出し、私はぐっと出かかっていた言葉を飲み込んだ。
次第に涙も止まり始め、荒かった呼吸もだんだんと治まっていく。
「隆司、ごめんね。私のわがまま迷惑だったよね。ごめんね。ごめんね……」
私は何度も謝った。
ただ彼の目を見ることはできなかった。
「いや、俺のほうこそごめん。意地になって言い返して。ごめんな」
隆司は私の手を握った。その手は少し震えていた。
「同棲のことなんて考えてもいなかったからさ。少し驚いただけなんだ。一緒に住みたくないとかそういうわけじゃないんだ」
隆司が心の内を口にする。
いつもの私ならなんでなんでと問い詰めてしまうだろうが、この時ばかりは彼の言葉を噛むことなく飲み込んでいた。
それからお互いの間に沈黙が生まれる。
このぎこちない距離が埋められないのは、きっと幼馴染という関係をこじらせているせいだ。
私は隆司のことが好きだ。ずっと昔から。
だけども幼馴染という唯一無二の特等席を私は今も手放せないでいる。
きっと自分のこの感情を伝えてしまったら幼馴染という特等席を失ってしまうんじゃないかという不安に引っ張られ、今も何も伝えられないままでいる。
「許しを請うだけでいいのか?」
神様から言われた言葉が頭の中に浮かぶ。
違う、私が欲しかったのはごめんねじゃないの。
許しを請うだけなら、もう願いは叶った。
だけども、私が本当に伝えなきゃいけないことはそれじゃない。
神様と話した時は分からなかったけど、今でなら理解が出来る。この幼馴染というこじらせを終わらせるには、このたった一度きりのチャンスしかないんだ。
私は呼吸を整え、これから訪れる「幼馴染」との別れに覚悟を決めた。
「あのね隆司」
「なに?」
「私、隆司のことが好き。ずっと前から好きでした」
素直になって初めて隆司の顔を心で見た。
隆司の目は子供のころから変わっていない。
その目をはっきりと主張する長い睫毛も、はっきりとした鼻筋も、少し厚ぼったい唇も、口元についた小さな黒子も、何も変わっていない。
大人になっていくほどに目が曇ってしまったのは、自分だけが何も失わずに幸せになろうとした罰なのだろう。
1秒、そしてまた1秒が過ぎていく。
時間が過ぎていくたびに、失う恐怖が心臓の中で大きく膨らみ、肺を圧迫して息苦しさを感じさせる。
「俺も……好きだ」
隆司の言葉に私は涙が溢れた。
そして隆司も泣いていた。
お互い言葉もなく抱きしめ合う。
そして無言で見つめ合い、唇を合わせた。
ぎこちないキスは少し塩辛かった。
「そろそろ時間だ」神様がぽつりと呟く。
私の体がだんだんと光の粒子となっていき、無情にも願いの時間が終わっていく。
「隆司、ありがとう」私は最後に言いたかったことを伝えた。
薔薇の花束を渡されるサプライズとか、ロマンチックな食事とか、そういうお姫様みたいなことはなかったけれども、ただ平穏な日常の隣にいてくれるだけで私は嬉しかった。
「沙希、俺のほうこそありがとう。最後に会えてよかった」
隆司は涙が伝う顔で笑った。
私はその頬にそっと手を伸ばし、その涙をそっと親指で拭う。
そして私の視界は真っ白になり、目の前から隆司の姿が消えた。