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静 霧一 『Vinyl』

 月曜日の気怠い朝。
 堅苦しい大人の黒装束を身に纏い、重い革靴の踵を鳴らす。

 4階建ての古びたアパートを飛び出すと、いつもと変わらず、黒い烏がゴミを引っ張り出し、白いビニール袋の塊を一つ二つと転がしていた。
 これが車道なもんだからたまったものではない。
 だが、そういう私もその光景を横目に、見て見ぬふりをしながら素通りしていく。

「カァ」
 烏が一匹鳴いた。
 私はふと立ち止まり、その烏を見つめる。
 真っ黒な瞳の奥に潜む透明な闇。

 虚ろな私の眼が奪われてしまうと、思わず視線を烏の隣に転がるビニール袋にずらした。
 ビニールであったはずのそれは、私の生首にすり替わっている。
 目を擦り、よく見るとそれは先ほどまで見ていたビニール袋であり、ただの見間違いかと、安堵の後に苛立ちが迫り、私はビニール袋に唾を吐いた。

 もういい大人である。
 逆行性となった私の精神成長は、それすらも異常だとは思えぬほどに退化してしまっていた。
 そして、それすらも気づけぬ私は、もはや滑稽を通り越した愚鈍であった。

 ◆

「ねぇってば。もう一回してよ」
「疲れたから無理」

 私は気怠くなった体を布団で包み込み、彼女に背中を向ける。
 楽しいはずの戯れも、飽きと怠惰によっていつしか取説のようなコピーアンドペーストとなっていた。

 あれもこれも、この薄っぺらいビニールのせいなのかもしれない。
 だが、私にはそれを外すほどの覚悟もなければ、責任すらも負いたくない小心者である。
 結局のところ、この平行線を辿る玉転がしに緩急をつけるのだとしたら、彼女の外見を変えるか、戯れを楽しむ人を見つける他なかった。

「なぁ、美沙」
 私はベッドに腰掛けながら、煙草を火をつける。
「どうしたの?」
 彼女は私の背中に胸を押し付け、耳元で囁く。
「髪、染めてみれば?全部金髪とか」
 ふと、私はそんなことを呟いた。

 彼女は少しだけ考え込み、ただ一言「わかった」と呟いた。
 従順な彼女は、その身なりにも個性というものが見つけられない。
 黒髪に薄化粧、マネキンのような服装に、偽りのない笑顔。
 何一つとして欠けのない彼女は、「安定」という文字をそのまま人間にしたような存在であった。

 私も最初から興味があったわけではない。
 華という言葉と対極にいる彼女に、なんの興味も好意も持たなかった私であったが、いつしか、そんな彼女に惹かれていった。
 それは特徴がないという希少性に惹かれたのかもしれない。
 単なる好奇心は、次第に変態を遂げ、好意となって羽化をする。

 そんな彼女と付き合い始めて1年。
 希少性など今や廃れ、ただただ、面白くもない惰性の日々が続いた。

 毛布の上の戯れも、決まった手順を踏むだけの彼女に飽き飽きする。
 きっとそんな淡々と進む日々が変化を求め、「金髪にすれば」という言葉を無意識に呟かせたのかもしれない。
 それを薄々彼女も感じていたようで、「いいよ」と何も言うことなく頷いた。

 それから1ヶ月の時間が空き、私は久々に彼女と再会した。
 私は目を見開き、何度も見返した。
 長い黒髪は、ショートカットの金髪となり、眉毛まで色が抜かれている。
 両耳にはピアス、顔には黒いサングラス、そして白い両肩を出した黒いワンピース。
 私の前に立っていたのは、安定という蛹を破り捨てた、極彩の蝶であった。

「美沙……なのか?」
 私はしどろもどろになって彼女に問いかける。
「当たり前でしょ、何言ってんの?」
 口調までもが外見に引っ張られ、もはや人格すらも以前の彼女ではない。
「それよりもさ、早く行きましょうよ」
 彼女は無理やり私の手を引っ張り、タクシーに乗っける。

 到着した先は、少しご汚さの残る、大通りの陰に隠れた路地裏であった。
 すでに日が落ちていることもあり、路地裏は一層、その黒さを増し、陰鬱な空気を漂わせている。

「なんだここ?」
 私はきょろきょろとあたりを見回す。
「ここね、地下にクラブがあるのよ」
 そういうと、彼女は慣れた足取りで階段を降り、扉をガチャリと開ける。

 そこには私の想像もしていなかった世界が広がっていた。
 眼が眩むほどの蛍光色の点滅に、鼓膜を破裂させるほどの爆音のメロディー。
 狂乱の坩堝に、酒と煙草。
 喧噪の霰が降り注ぐ、仄暗い地下で、私は一人カウンターに座った。

 彼女は他の男と話しているようだが、私はそれを止めることも、割入ることも出来なかった。
 一人で酒を飲んでいると、彼女がやってきて、ウイスキーをショットで注文する。

「あなたも飲みなさいよ」
 そして半ば無理やり飲まされると、喉の奥が急激に熱くなり、焼ける感覚に陥った。
 もう、何杯飲まされたのだろうか。
 酔いが一気に回り始め、言葉が溶け始める。

「次、行きましょ」
 彼女は私の手を引き、再び私をタクシーに乗っける。
 私は揺れる車内で、煌びやかなネオンの子守歌を聞きながら、ゆっくりと意識を落とした。

 ◆

「ねぇってば」

 私は彼女の突き刺すような言葉に目を開く。
 背中には柔らかい感覚があり、手を動かそうとすると、何かに締め付けられているようで動かすたびに痛みを感じる。
 乾いた眼をパチクリとさせながら手首を見ると、銀色の手錠がかけられており、それはベッドの柵に繋がれていた。

「おい、これどういう―――」
 叫ぼうとした瞬間、彼女は無理やり私の口をガムテープで塞いだ。
「あなたって遊びがないのよね。つまらないわ」
 彼女は、着ていた服を脱ぎ捨てる。

「変化」を求めたのは自分だ。
 だが、実際「変貌」を遂げた彼女を目の前にして、私は萎縮をしてしまった。

 その理由が今ならわかる。
 それは私が「安定」をしてしまっていたからだ。
 人に変化を強要し、あたかも私は変化の権化であるかの如く振舞った。
 だが結局はそれも口先だけで、手足一つ動かせない私は、滑稽を通り越した愚鈍である。

 彼女の感情に薪をくべたのは私だ。
 それなら、その火を呑むのも私だ。
 この焼け付いた喉の痛みは、これからの痛みの序章に過ぎないだなんて、まったく哀れなものだ。

「それじゃ、楽しみましょ」
 最後に見た景色は、にやりと笑った彼女の口元であった。
 私は、ビニール袋を被せられ、焼けつくような火を呑んだ。

 おわり。


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静 霧一/小説
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