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静 霧一 『星天に君は瞬く(中)』

※第一話はこちらから

「あ、天城!」
 僕は焦りながら彼女に駆け寄り、傘を差した。

「遅れて……ごめんね……」
 彼女の瞳は、雨とは違う輝きで濡れていた。

 僕の頭は、とにかく彼女が風邪を引いてしまうということで必死となり、来ていたジャンバーを彼女に着せ、自転車の後ろに乗せると、一目散に自分の家へと漕ぎ出した。
 20分はかかる道を、足元が悪い中で、10分ほどの時間で自宅に到着する。
 玄関の扉を勢い良く開けると、そこにはちょうど母の姿があった。

「あら、大樹どうしたの―――」
 母は僕の姿とその後ろにいるびしょ濡れの天城の姿を見て硬直した。
 そしてすぐさま「風邪ひくから早くお風呂に入ってきなさい!」と促し、何も聞くことなく、天城を浴室へと連れて行った。

 僕は玄関でバスタオルだけ渡され、その場で濡れた体を拭くと、2階の自室へと上がり、濡れた服を脱ぎ散らかして、さっさと着替えをした。
 防水性のバックに入れていたおかげか、望遠鏡が無事であったことにホッとしたが、天城の様子がどうしても気がかりであった。

 冷えた体のまま1階へ下りると、リビングのソファーでくつろいだ。
 微かに僕の耳に、シャワーをきゅるりと閉める音が聞こえた。
 浴室にいるわけでもないのに、僕は意味もなく緊張した。
 ほどなくして、母がリビングに戻ってきて、僕に事情を尋ねた。

 それもそうだ。
 息子が見ず知らずのずぶ濡れの女の子を連れて帰ってきたなんて、幼いころに子猫を持って帰ってきた時とはわけが違う。

「実は―――」
 僕は事の経緯を一から話し始めた。
 天城とは学校の図書室であったこと、公園で天体観測をしているときに偶然再会したこと、あの公園で今日も星を見ようと約束をしていたこと。
 天気予報が雨だったのにも関わらず、なんで止めにしなかったんだと母に怒られたが、それには理由があった。

 僕は天城の連絡先を知らないのだ。
 そう。僕が知っているのは、彼女が同じ高校であること、星が好きなこと、そのたった2つだけであった。
 僕は彼女のことを何も知らない。
 彼女がずぶ濡れになってまで、僕に会いに来てくれた理由でさえも。

 ふいに僕の目に涙が溢れた。
 天城と離れたくないと思ったがために、勝手に彼女に期待し、勝手に失望した。
 あまりにも僕は僕自身が情けなかった。
 そんな泣いている僕の姿を、母は理由も聞かず、ただじっと黙って慰めてくれた。

「お母さんが聞けることは聞いておくから。大樹もお風呂に入って早く寝なさい」

 そういうと、母はまた浴室に向かっていった。
 僕はばったりと出会うことのないよう、2階へお風呂を待機した。
 30分後、僕は1階へと降り、浴室へと向かった。
 階段から浴室までは一本道となっており、途中にリビングへ通じる扉がある。

 扉からリビングの光が少しだけ漏れており、ちらりと隙間を除くと、そこには母と天城がテーブルで向かい合っている姿が見えた。
 天城はこちらに背を向けているため、表情を読み取れない。

 彼女は今どんな顔をしているのだろうか。
 僕はそれが気が気でなかったか、そんなことを気にしていたら永遠にこの小さな隙間から目が離せなくなってしまうため、無理やり足を動かして、その場から立ち去った。

 温かなシャワーを浴び、少し温くなった湯舟に浸かる。
 天井に向かって息を吐くと、それが湯気と交じり合い、白くなって宙へと消えていく。
 口から溢れ出るのは、彼女を想う心が生み出す漠然とした不安であった。
 僕はそんな不安を咀嚼しながら、ゆっくりと湯舟の中へと沈んでいった。

 ◆

 真夜中の自室。
 僕はいつもと違う感覚に、布団の中でふと目を覚ます。
 ここは僕だけが寝る自室なわけだし、普段であれば、他に誰もいるはずはない。
 だが、今日だけは、背中越しに温かな人肌を感じた。

「天城……?」
 僕は彼女の名前を呼んだ。

 すると、彼女は声も出さず、ただぎゅっと背中の服を摘まんだ。
 後ろを振り向くことができない。
 天城と僕の距離がゼロに近く、彼女の吐息が耳にかかる。
 僕の心拍はそのたびに、高く脈打ち、その度に緊張が押し寄せた。

「桐谷くん……あのね」
 天城はか細い声で囁いた。
 僕はそれに耳を傾け、口を閉じる。

「もしかしたら……もう会えないかもしれないんだ」
 その言葉に僕は硬直した。
 会えないとは一体どういうことなのだ。
 僕の額から、冷や汗が流れ出る。

「それってどういう―――」
 僕は寝返りを打ち、後ろを振り向いた。
 その瞬間、僕の唇に温かな感触が重なった。

 それは、紛れもない天城の唇であった。
 初めてのキスは、寂しい香りがした。
 僕は、突然の出来事に呆気にとられる。

「天城―――」
 僕は彼女の名前をもう一度呼んだ。
 彼女は何も言わず、ただ小さく頷いた。
 お互いを求め合う息と、繋ぎあう体温だけが、2人を支配する。

 僕らはもう一度、唇を重ねた。
 彼女の瞳が、少しだけ潤んで見え、それがまたあまりにも艶めいて見える。

 僕はその瞳に、思わず心を撃ち抜かれた。
 言葉なんていらない。
 優しく、僕と彼女は指を絡ませあう。

 僕らは、目の前にある愛だけを、本能のままに抱いた。
 何度も、何度も唇を重ねるたびに、僕と彼女の愛が、パレットの絵の具のように混ざり合っていく。

 理性で抑えつけていた獣が、夜に吠える。
 こうして僕らは、たった一度、星の見えぬ夜に一つとなった。

 目が覚めると、すでに彼女は隣にはいなかった。
 机の上に置かれていたのは、たった一枚のメモ書きで、「ありがとう」の一言が書いていった。

 その文字は少しだけ、震えていた。

 ◆

「桐谷、落ち着いて聞いてくれ」

 放課後の面談室。
 僕は村上と2人きりの状況である。
 いつもは冗談をいい、生徒を叱咤激励する熱い担任であったが、今の村上からはそんな様子は見られず、打って変わって落ち着いた大人の眼差しを僕に向けていた。

「天城は―――すでにもういないんだ」

 村上の言葉に、僕はぐっと拳を握った。
 その答えは、もう僕の中で予想がついていたのだ。

 天城と一夜を共にし、姿を消したあの日。
 一日中、彼女を探し回ったが、とうとう彼女を見つけ出すことはできなかった。
 結局、彼女の家も連絡先も知らないままだったために、自分の勇気のなさを呪い、落胆しながら家に辿り着いた。

 その夜、母が、昨夜天城と話していたことを話してくれた。
 天城には、どうも帰る家がないようであった。
 もともと彼女は心臓の病を抱えており、それでもなんとか高校にまで進学したが、ここにきてまた心臓病が再発し始めたのだという。
 両親は彼女のために日夜働いており、彼女は今入院中の身であるはずだったが、こっそり病院を抜け出して外に外出しているみたいであった。
 もういつ死ぬかも分からない状況で、病床の上で死にたくはないという思いから、病院側の配慮もあり、こうやって金曜日の夜はこっそり抜け出していたと彼女は言っていたらしい。

 母はそれだけを聞くと、それ以上の詮索をすることなく、彼女を一夜家に泊めた。
 帰った後にそんな話を聞いていたもんだから、彼女は病院に戻ったものだと思っていた。
 だが、村上はそれとはまったくもって異なる事実を話し始めた。

「天城 芽衣子はな、10年前に亡くなっている」

 その瞬間、僕の息が止まった。
 村中の言っている言葉を頭が理解を拒んだ。
 僕は先週の金曜日に天城と会っている。
 彼女の人肌だって感じているんだ。
 死んでいる?そんなはずは―――

 僕が黙ったままでいると、村上は手荷物から一冊の卒業文集を取り出した。
 ページをパラパラとめくり、3年3組の顔写真で手を止めた。
 そこには10年前に卒業した生徒たちの顔写真が並んでおり、そして隅っこに天城の顔写真が載っていた。
 それは間違いなく、彼女の顔であった。

「俺もこの学校にきてちょうど10年だったから、彼女を直接見たわけじゃないんだがな、先生同士の親睦会で"昨年度に心臓を患っていた生徒がいた"という話を聞いたんだ。その話が印象的で名前だけは憶えていてな。だからお前が"天城に会った"なんて言い出した時は驚いたよ」

 そういうと村中は一枚の紙きれを渡した。
 そこには隣町の住所が記載されていた。

「ここが天城の実家だ。桐谷、お前があった天城はどういう姿だったのかは分からないが、これも何かの縁だ。ここの住所を訪ねてみるといい。俺から連絡は入れておく」

 それだけを言い残すと、村上は面談室を後にした。
 開かれた卒業文集には、精一杯に笑顔を浮かべた天城がいた。
 その表情は、どこかぎこちなく、寂しげであった。

 ◆

「あなたが……桐谷くん?」
「はい、そうです」

 僕は村上のメモを握りしめながら、その住所の場所に位置した一軒家の玄関前に立っていた。
 表札には「天城」と書いてある。
 玄関に顔を出したのは、年齢を見るに、どうやら天城の母であるようであった。

「上がってどうぞ」と言われ、僕はその家の玄関を跨ぐ。
 ちらりとみた天城の母の顔は、少しばかり疲れているようにも見えた。
 僕はリビングに通され、テーブルの椅子に座るよう促された。

 家の中は静かで、どこか物悲しい。
 まるでパズルのピースが一つ、欠けたような雰囲気をまとっており、微かに不完全な香りが立ち込めていた。
 その香りはどうやら、リビングを隔てる襖の隙間から漏れているようであった。

「お顔を見てあげてください」
 天城の母は立ち上がると、襖をゆっくりと開けた。
 そこには和室が広がっており、そして奥には仏間があり、そこにはこじんまりと小さく黒い仏壇が納まっていた。
 僕は襖の敷居をまたぎ、そして仏壇の足元に置かれた座布団の上に正座する。

 どうやら、部屋に漂っていた香りは、この仏壇に灯された線香の香りであった。
 仏壇にはシュークリームと栓の空いたカフェオレ缶がお供えされている。
 小さな枠のなかで、精一杯に笑う天城の姿がそこにはあった。
 正真正銘の事実がそこに佇んでいた。
 あの夜に感じた彼女の温度が、自分の立てた線香の香りに紛れて消えていく。
 僕はただ茫然としながら、仏壇に前で正座をし、写真に写る天城の姿を見つめた。

 十数分経った頃だろうか。
 慣れない星座に足が痺れ始め、僕はとうとう足を崩した。
 その痺れをこらえるように立ち上がり、そして天城の母のいるリビングへと戻った。

「芽衣子とはどこで会ったの?」
 天城の母が尋ねた。
「初めて会ったのは高校の図書室です」
「図書室……?」
 天城の母が首を傾げる中、僕はバッグの中から一冊の本を取り出した。

『宇宙は何でできているのか』

 黄色い表紙のそれは、天城が僕に無理やり貸し出した本であった。
 ページを捲り、裏表紙の貸し出しカードを見せた。
 縁のヨれたカードの「天城 芽衣子」という名前に、天城の母はたまらず涙を流した。

「この本ね、入院中に芽衣子がよく読んでたの……」
 そういうと、天城の母は彼女のことについて話し始めた。

 天城 芽衣子はもともと先天性の心疾患を抱えており、虚弱体質であった。
 運動をすることはできず、引きこもりのような生活を送っていた。
 外の世界を思うように羽ばたくことのできない彼女にとって、宇宙という壮大な未知は十分すぎるほどに彼女を惹きつけた。
 2階にある自室から毎夜のこと、彼女は望遠鏡を使って天体観測をしていた。

 ちょうど今から11年前、彼女が17歳の頃である。
 突然の心臓発作によって、緊急入院をさせられることになった。
 一命を取り留めたものの、それ以降彼女は、病室で点滴を刺されながら、ただただ窓の外だけを眺める日々を過ごしていた。

 そんなある日、彼女はふいに、本が読みたいと呟いた。
 数冊の本を天城の母は用意したが、彼女は「高校の図書館にある本を借りてきてほしい」と頼まれ、持って行った本が『宇宙は何でできているのか』であった。

「この本、面白いの?」と天城の母は彼女に尋ねる。
 彼女は少しだけ微笑みながら「面白いよ」とか細い声で答えた。
 他の本も複数冊持ってきては下げ、持ってきては下げを繰り返していたが、その一冊だけは彼女がずっと手元に持っていたものであった。

「まさか、この本がまだあったなんてね」
 天城の母は涙ながらに笑う。
 そしてその場から立ち上がり、仏間のほうへ向かうと、仏壇の引き出しからB6サイズのノートを2冊持ってきた。

「これは芽衣子が生前に残した日記よ」
 僕は天城の母から恐る恐るその日記を借りた。
 それは彼女が生前、高校入学初日から息を引き取る直前までが記されていた。

「これ、お借りしてもいいですか?」
「えぇ、いいわよ」
 僕は日記を借りると、天城の母に頭を下げた。
 空が赤く染まっていき、夕暮れを知らせるメロディーが町中に響き渡る。
「ありがとうございました」と玄関で一礼し、僕は家路に急いだ。

 夜が近づく空には、すでに白く輝く一等星が顔を出していた。

(つづく)



すいません。
2部構成の予定でしたが、予想外にボリュームが膨らみ、3部構成に変更しました。
最終話は2/25を予定しています。

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静 霧一/小説
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