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影法師


変わることは悪なのだろうか。

大人になればなるほど、「お前は昔と変わった」と言われることが多くなった。
私からすれば、「お前は何も変わっていないじゃないか」と言いたくなるが、ぐっと言葉を堪え、「そうか?」と知らんぷりを続けた。

「変わらない」ということを、果たして幾人の人が認識しているだろうか。
1年前までは楽しいと感じていた話も、今ではとんとつまらない。
「変わってしまうこと」で、私は日に日に、周りとの壁を感じるようになってきている。

「変わらない」ということは人間にとって心地の良いものだということも知っている。
なにせ、脳みそに負荷がかからないし、ストレスも感じない。
だからこそ、「変わらない」人は、「変わらない」人を好むのだ。
「変わる」人というのは社会の中でマイノリティーに属するということを、私は身に染みて感じている。
環境を変えてしまえば済む話なのだが、なにせ私の背中に生えた小さな羽では、未だ対岸まで羽ばたける力がない。
そんなことをため息交じりにただ悶々と考え込みながら、今この記事を執筆をしているのは、実に滑稽な話である。

「変わらない」ことにも利点はある。
例えば、長きに渡り好きなものを愛し続けることであったり、真っ直ぐな信念であったり、価値を共有できる友との繋がりだったり。
そういうものは「変わってはいけない」ものの象徴であると思う。
私の中にも貫きたい信念というものはある。
「私が信じたものは、何をされようと信じる」という、なんとまぁ頑固な信条を私は胸に抱えている。

だが、ここで一つの矛盾が生まれる。
自分が変わってしまえば、当然価値観も変わるのだから、信じるものも変わってしまう。
では、その時に、私は信じていたものを信じることが出来るのだろうか。

その答えは、未だ出ていない。
私は、その境界で彷徨い続け、今も考え込んでしまっている。

果たして「変わる」ということは悪なのだろうか。
私の最近の悩みである。
大半の人が変わらない中で、ただ一人、強迫観念に追いかけられるかのごとく「変わる」ことへの執着をしている私はどこに向かっているのだろうか。
自分が「変わろう」とすればするほど、孤独になっていく。
私は、こうなるために「変わろう」としているのだろうか。

1年前と比べ、私は確かに成長した。
だが、それと同時に多くのことに傷つき、泣いた。
自分が信じていたものまでも、信じてよいのだろうかと素直に思うことができなくなってしまった。

ただ一人、椅子にもたらながら天井を眺める。
影法師のように、孤独が黒く私を象っていく。
温かなコーヒーに、部屋の電気が映り月を模す。
口に含んだ苦みを愛せるのなら、きっと私の夜は少しだけ輝いてくれるだろうか。

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静 霧一/小説
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