【短編小説】嘘つきの君と、永遠の昨日。
「ねぇ、また明日この桜の木の下に来てもらえる?」
私の横に座りながら小さな文庫本を読む彼に問いかけた。
彼は私のほうに振り向くと「うん、いいよ」と一言答え、また文庫本に目線を戻した。
「ねぇ、何読んでるの?」
私は彼の横に顔を近づけ、本の中を覗き込んだ。
「"潮騒"だよ」
「潮騒?」
「三島由紀夫っていう作家の本だよ」
「ふーん」
私は知って言うような知らないような顔をして、本を覗き込むのをやめた。
「本って読んでて面白い?」
「面白いさ。美しいじゃないか」
「美しい?」
私は頭を傾げた。
「そうだよ。日本語は繊細でありながら豪胆で、儚くもある。例えるのなら一枚の水墨画を見るような感覚に似ているといえばいいのかな」
彼は優しく微笑んだ。
私は彼の言っていることがさっぱりわからなかった。
言葉は言葉であって、芸術とは程遠い抽象的な道具だと思っている。
彼と同じく例えてみるのなら、あの青空に綿菓子のように浮かぶ白いいびつな雲のようと言えば良いのだろうか。
決まった形のない雲はいつだって曖昧で、自分勝手に空に浮かぶ。
地球が雨を降らすための道具でありながらも、抽象的なその存在を芸術などと思ったことは一度たりともない。
要はどちらも、あやふやではっきりとしないものであって、どちらもその概念的な存在に美しさなど微塵も感じることが出来ないということだ。
彼との価値観のズレはいつもこうなのだ。
私がケーキを食べたいといえば、彼は煎餅を食べたいといい、遊園地に行きたいといえば、プラネタリウムに行きたいと言う。
それで結局言い争いになって、両方選ぶ羽目になる。
そして最後に「選んでよかった」と2人で馬鹿笑いするのである。
そんな彼のことが私は好きだった。
好きで好きでたまらなかった。
それは「何故か」と問われれば、私は「盲目だから」という帰結しない回答を持ち出すかもしれない。
好きだから盲目なのか、盲目だから好きなのか。
もうそんなことさえわからないほどに、私の感情はドロドロに煮込まれたいちごジャムのように、不確かであやふやなものになりかけていた。
私はじっと彼の横顔を見つめた。
白く透き通った少女のような肌には少しだけ青い血管が浮き出ていて、顎から耳下まで伸びる下顎の骨は、まるで三日月の輪郭のように細く美しい曲線を描いている。
「何をじっと見つめているんだい?」
彼が私の目線に気付き、本の文章から目を離し、わたしの黒い瞳をじっと見つめた。
「いや、なんでもない」
私はぷいっとその目線から目を逸らす。
「君はいつもそうだねまったく。可愛いじゃないか」
「可愛くありません」
「いや、可愛い」
「可愛くありません。やめてください、恥ずかしい」
「私は恥ずかしくないさ。だから何度だっていうよ。君は可愛い」
私はその言葉に紅潮し、それを見せないために180度正反対に顔を逸らす。
よくもまぁ、そんな言葉を恥ずかしがらずに言えるものだ。
それが彼の素であるから仕方ないのはわかっているが、それでもやはり調子が狂うってしまうのもまた事実であった。
すると、四月の柔らかな風がふわりと吹く。
桜の枝木は微動だにせずとも、その先端のピンク色の花弁がざわりと揺れ動き、数枚の花弁をひらひらと散らした。
その幻想的な光景に私と彼は思わず上を向いた。
一面に広がる無限のピンクの隙間から、時折太陽の白い光がスポットライトのように私たちを照らし出し、眩く私の目を晦(くら)ました。
すると、一枚の桜の花弁がくるくると時計の針が回るように落ちてきたかと思うと、彼の黒い学生服の方の上にポトリと乗っかる。
彼はそれを右手の人差し指と親指で摘まむと優しく手の平に乗せた。
「桜とは、実に美しいな。私は一番桜が好きだ」
「そう?私は紅葉のほうが好きだな」
「相変わらず君は面白い回答をするね」
「あなたもほうこそ、面白い回答をするわ」
私と彼はクスリと笑った。
「では秋は紅葉狩りにでも行こうか」
「そうだね。行こう、紅葉狩り」
そうして、私は彼の手を握り、ゆっくりと、そして優しく唇を重ねる。
お互いの体温が漏れ出し、その吐息が桜吹雪と混じりあい、四月の空の向こうへと消えていった。
「嘘つき」
私は小さく呟いた。
昨日座っていたベンチの上には、すでに桜の花弁が散らばっていて、私たちがいた痕跡など残ってもいなかった。
彼の真似をして、私も文庫本を読んでみる。
1ページめくり、もう1ページめくり、もう1ページをめくる。
言葉は魔法のように私の眠りを誘う。
だんだんと文章がぐにゃぐにゃと蛇のように動き出し、「あれ、どうしたんだろう」と思っている間に、私は目を瞑ってこくりこくりと頭を傾げてしまった。
あれから何日経ったのだろうか。
次の日も、またその次の日も彼は来なかった。
桜はだんだんとその花弁を散らしていき、その枝の先からはよく映えた緑の青葉を生やした。
ベンチには桜の木から散った青々とした葉が散らばっていた。
私はまたも、文庫本を読んでみる。
そして、いつしか私はいつものようにこくりこくりと眠ってしまっていた。
桜の青葉はその血脈をだんだんと枯らしていき、いつしかその葉はオレンジ色の枯葉となった。
「紅葉狩り……するっていったじゃん」
私はベンチの上に溜まった枯葉をさっさと払い、いつもの場所に腰をおろす。
そしていつものように文庫本を開く。
もう何度、この本を読んだだろうか。
結末を読むたびに、私はどうも胸が詰まっていたくなる。
最後の一文を読み終わり、表紙をぺらりとめくるとそこには活字で"潮騒"と印刷されていた。
主人公とヒロインが結ばれ、遠い未来に思いを馳せる結末は、どうも私と彼の関係に似ていた。
彼はあの日から姿を見せてはくれない。
この小説のように、私たちが描いた未来への続きはあやふやなままで、私はずっと最後の結末の一日を繰り返しているようにも思えた。
「嘘つき」
私は小さく呟いた。
すると、開いた本の隙間に、ひらりと1枚の枯れ葉が落ちてきた。
私はそれをつまむと、手の平でくしゃりと握った。
そして奥歯を噛みしめながら、来るはずのない昨日の彼を待つのであった。
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