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【エッセイ】打ち上げ花火、散るとみるか消えるとみるか

夏の夜空に咲く大輪の花———

きらきらと火花が撥ね、夜のキャンバスに動的な芸術が咲き誇る。
猩々緋、菖蒲色、群青色に梔子色。
草花にはないその配色は、人工物たる芸術の最たるものである。

花火は”散る“と言うのだから、それはもう職人の息吹が込められ、血が通っている生命そのものだ。
まるで蝉の幼虫のように、羽化をまだかまだかと望み、そしてようやく外へと出ると、小さな心臓に鞭を打ち、生命を涸らしながら生きていく。

それであるなら、花火は生きているのではないか―――
花火の心臓は、俺が作っている。
華やかに散らしてやるのが俺の役目だと、ある職人は鼻息を鳴らして語った。

一方で花火は"消える"ものだと語る人がいる。
花火は、あくまでの火の粉であるというものだ。

最近の若い子と一括りにしては可哀想かもしれないが、風情という物を感じていない。
風情というのは一瞬の快楽のような物だ。
いざ花火を上げようものなら、縁日は所狭しと並び、花火の周辺は大混雑、酔っ払いたちがそこら辺で唾を吐き、去っていけばゴミの山。
花火が散った先は、皮肉にもプラスチックの欠片ばかりだ。

文字通り、火の粉をかぶったわけだ。
美しからろうと見にくかろうと、どちらも人工物であることに間違いはない。

ご近所さんからすれば、他所者の行軍が終わった後の散々たる風景を目の当たりにしては、花火は美しく散っていったなどと口が裂けても言えないだろう。
そんな様子に飽き飽きとしているのだ。
花火大会の後の惨状は、毎年のようにネットを賑わせている。
あちらもこちらも風情風情と言うばかりで、裏側のことなど知ったこっちゃない。

一瞬の花火が風情というのなら、消えた後の花火は無情だ。

花火の散り際は美しくあってほしいものだ。
散るというのが生命の叫びというのなら、それを風情というのなら、快楽に溺れる人間であってはならない。

打ち上げ花火、散るとみるか消えるとみるか―――

僕らは芸術の一部であることを忘れてはならない。

おわり。

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静 霧一/小説
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