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幸と不幸の狭間で、僕らは揺れている。

人はみな、幸福と不幸の狭間で揺れている。
どちらかに身体を傾ければ、簡単にそちらへと転がり込むのだ。

幸と不幸を二分すれば、50:50になるはずだ。
それであるのに、僕らの周りは不幸な人で溢れている。

お金がない、友達がいない、愛がない、楽しみがない。
口を開けば"不幸だ"という人がほとんどだろう。

この世界の現実は、10:90の割合で不幸な人なのだ。

幸せに絶対的な尺度はない。
その人が「幸せ」だと思えば、幸せなのだ。
だが、「不幸だ」と言っている人を見ると、私は思うことがある。

「なぜ、不幸になりたがっているのか」と。

私なりの答えはこうだ。

「不幸な自分が可愛くて仕方ないから」だ。

この人たちに共通することがある。
まったくもってお礼が言えないのだ。

お礼とは非常に難しいものである。
意識しなければ忘れてしまうし、言葉だけでは薄っぺらい。
多くの人が言葉には力があると思っているが、誤解も多い。

言葉に力があるわけではない。
言葉によって、行動を起こした者に力があるのだ。

だが、ほとんどの人が行動を伴わない。
あまつさえ、自分を棚に上げる始末だ。

そんなもんだから、静かに人が離れていく。
蔓延るのは悪評ばかり。
不幸に傾いていくのは、当然の結果だ。

ここで一つ、私の実験をしてみた。
人はどれぐらいの割合で、どれぐらいの頻度でお礼を言わなくなるのか。

職場に、それなりのブランドのお菓子を社員全員分を置いてきた。
約40人分である。回数は5回ほど。
さて、何人がお礼を言っただろうか。

正解は5人だ。
そしてお礼を言い続けてくれた人は、2人だ。

1回目は12.5%、2回目以降は5%だ。
ちなみにいうが、次の日にはお菓子はすべて無くなっている。
誰かが、半分以上持って帰っているのだろうか。
そちらの方が、まだ笑い話で済むというものだ。

これほどまでに、人はお礼を言えない。
お礼を言いたくないのか、恥ずかしいのか、面倒くさいのか。
小さな幸運にさえ、感謝できないのだから、不幸に傾くのは必然なのだ。

だが、どこかでお礼が言えていない感情というのは抱いているはずだ。
そして、前にも後にも進めない僕らはこう考える。
「私は不幸だから仕方ない」と。

不幸は行動できない自分を正当化するためには、ピッタリの言葉だ。
これがほとんどの人が、行動できない理由の一つでもある。

お礼を言わなくとも、痛みはない。
むしろ、盛大なお礼など恥ずかしくてたまらない。
する必要性も、ない。

だってそれは「目に見えない」のだから。

大切なものは、目に見えない。
見えないからこそ、細心の注意を払わなければならないのだ。
僕らは、いつもどこかで見られていることを意識しなければならない。

幸と不幸の狭間で、僕らは揺れている。

その錯覚は、自らの行動に依存する。
あなたは、どちら側に揺れているのだろうか。

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静 霧一/小説
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