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静 霧一 『月詠の珈琲』
私が白いカップに入ったコーヒーを見つめると、そこには白い満月が浮かんでいた。
ふと上を見え上げると、それは部屋に吊るされた和紙で包まれた照明であった。
それは夜空に浮かびながらほんのりと淡い光を照らす満月に似ていた。
最近はずっとこの部屋に引きこもって小説を書き綴っている。
外に出たいのは山々だが、世間は未曽有の事態だというものだから、こうやって机の上のパソコンに向かい合って、黙々と言葉を紡いでいるものだ。
このような未曽有の事態は、歴史上、幾度となく形を変えて発生している。
だがそれは、イノベーションの礎ともなる「創造的休暇」を与えるものでもある。
ここで有名な話を1つ挙げよう。
約360年前、イギリスでペストが大流行した時の話である。
万有引力の法則を発見した、かのアイザック・ニュートンは、当時ケンブリッジ大学の生徒であったが、ペストによるパンデミックにより、故郷の実家へと帰省した。
その間、一人でプリズムの実験による光の発散を発見したり、万有引力の法則、それに伴う現代数学の基礎となる微分積分をまとめている。
天才でない私には、そんな偉業を達することなど到底できることではないが、「創造的休暇」というものにはひどく共感できるものがあり、そのおかげで、ずいぶんと多くの文章を書き記してこれた。
自分にこれほどの価値を見出せたのは、皮肉にも、陰鬱とした社会情勢の渦中だからこそであった。
そんな「創造的休暇」を取ってばかりの私にも、ふと会いたくなる人はいる。
頭の中から文章がすっぽ抜け、どうにも指が動かなくなり、椅子の背もたれに首をもたれながらため息をついてしまう時、ふと思い出してしまうのだ。
行き場をなくした悲しみや寂しさがため息となって部屋の中を彷徨い、それがまた私の中へと戻ると、私の美しき思い出の中を回遊し始めるせいなのかもしれない。
その時、ふと目に入ったものがコーヒーであった。
コーヒーに浮かぶ白い満月。
それは、あの日私が訪れた繁華街の中にぽつりと現れる、階段を下の喫茶店のコーヒーによく似ていた。
店名は「月詠珈琲」といった。
中に入ると、カウンターが何席設けられ、奥には小さなテーブル席が1席だけ設けられている。
なんといっても印象的なのが、カウンター裏に取り付けられた長い水槽であった。
水槽の中では赤や青の熱帯魚が、水草を揺らしながら優雅に泳いでいる。
落ち着いた店内で、私は君の話をコーヒー片手に聞いていた。
他愛もないたった15分の話であった。
もう1年も前のことだというのに、私はあの日話した言葉の数々を、君の美しい横顔の輪郭を、今も鮮明に覚えている。
なんせ、君がカフェオレに描かれたラテアートを見て、「美しい」といった一言は、未だ私の耳で残響しているのだから忘れられるわけがない。
暦が風のように流れていき、コーヒーが段々と熱を失っていく。
ふと、私はその日の15分が恋しくなり、「月詠珈琲」のページを開いた。
そこには無情にも「閉店」という文字が表示されていた。
その瞬間、私の思い出は、永遠に蘇ることのない美しい化石となった。
私は言葉を生み出し、思い出の場所を失った。
それが良くも悪くも、この文章を書かせている。
誰もが会いたいと願いながら、無機質な言葉に愛を詠む毎日に、疲れ切ってしまっているのではないだろうか。
どうやら私もその一人であるようだ。
私はその寂しさを受け入れるように、コーヒーに映る白い満月を飲み干す。
「きっとまた、新たな月と出会えたなら」
私はひとりでにそう呟き、懐かしき美しい思い出に瞳を閉じた。
おわり。
◆
美しい思い出をありがとうございました。
今でも私の大切な思い出の1ページです。
大変、珈琲が美味しかったです。
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