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知能はどこまで普遍的か? 「万能の学」としてのAI研究開発

前回は、本文では触れてはいないピーテル・ブリューゲルの「子供の遊戯」をアイキャッチ画像に置いた。それはフーコーの議論と大いに関係するものであったがそこまで辿り着けなかった。今回はそのあたりから始めたい。


社会に内包された狂気

ピーテル・ブリューゲルは中世ヨーロッパのフランドル(現在のオランダからフランスにまたがる地域)で活躍した画家である。中学校の美術の教科書に必ずでてくる「バベルの塔」の画家として日本でも有名で、数年前に東京都美術館で大規模な展覧会が開かれたときは、入場まで数時間待ちの盛況であった。私もこの展示会に出かけ、これまで画集で見てきた数々の絵画を実物で拝んだわけだが、この画家に対する愛着は歳を重ねるごとに増すばかりである。
このブリューゲルの絵が、前回、「排除」を論じるために持ち出されたミシェル・フーコーと絡む。フーコーによれば、ヨーロッパでは中世以降の古典主義時代になって狂気が社会から排除された。翻っていえば、それ以前の社会では狂気は社会のなかに内包されていたわけである。それをビジュアルイメージとして如実に私たちの前に示すのが、ブリューゲルの絵画である。「子供の遊戯」にかぎらず、「謝肉祭と四旬節の喧嘩」、「悪女フリート」など、ブリューゲルの絵のなかでは狂気も残酷も道端の日常として描かれる。狂気が排除される以前の人間生活が垣間見られる。
この狂気や残酷さを内包する人間生活はなにも中世ヨーロッパのみの話ではない。日本の昔話のたぐいも近世は江戸時代以降に子供向けに改編されるまでは非常に残酷なものであった。たとえば中世に説経節として成立した「安寿と厨子王」は、原典では安寿への拷問や山椒大夫への鋸引きなどスプラッターさながらである。のちに森鴎外の「山椒大夫」ではすべてカットされた場面だ。作中から狂気が排除されたのだ。角川文庫の『山椒大夫・高瀬舟・阿部一族』 に収められている。「阿部一族」では武士の切腹を生々しく描く鴎外が、「山椒大夫」では狂気を避けた理由は研究書にでもあたるしかないが、ひとつの排除といっていい。

AI研究開発はあらゆる学問に接近する

ブリューゲルが描いた狂気。中世には日常にあった狂気とはなにか。乱暴を承知でいえば、精神病名を戴く以前の狂気は自然現象であった。そうした狂気は、フーコーによれば古典主義時代のエピステーメーである分析の方法に則って異常な現象へと隔離されていく。さらにフーコーは近代に入って「人間」というエピステーメーが生まれたという。人間的な視点、つまりヒューマニズムが誕生し、狂気は治療すべきもの、更生されるべきものになった。うつ病の治癒が社会復帰で診断される現代はまさにこのエピステーメーの時代である。
では、ヒューマニズムが誕生する以前の人間の姿とはなんであったか。私たちはまさに「人間」時代のエピステーメーである科学的アプローチによって人間を探究しようとしている。いまや、その探究はAI研究を介して情報科学までを領域にする。
いや、AI研究開発によってあらゆる学問がひとつに纏まろうとしていると言ったほうがいいかもしれない。AIは脳科学と共振し、脳科学は医学とも物理学ともつながる。一方で、AIが目指す生命や知能とは何かと問うていけば、それは哲学となり倫理学となる。そもそも認知、行動、言語の研究成果を抜きにAIを論じることなどできない。
言語と言った。フーコーと激しく対立した言語学者がいる。ノーム・チョムスキーである。AIの進化とともに、AI研究の一分野である自然言語処理が言語学と関係が深いのはいうまでもない。昨今は一般には政治評論家的なポジションのほうが目立っていたチョムスキーの言語学での実績にも改めて注目が集まっている。『チョムスキーと言語脳科学』 (集英社インターナショナル)を書いた言語脳科学者・酒井邦嘉も、AIへの論考が多くある。

生得に依れば差別を起こし、経験に依存すれば抑圧的になる

チョムスキーが言語学に打ち立てた金字塔である普遍文法については、『チョムスキーと言語脳科学』で入門的に知ることができるが、まさにこの考えによってチョムスキーはフーコーと激しく対立したわけである。
普遍文法とは、人間が生来、言語を理解しうる本能を有しており、人類共通の文法があるとする理論である。私たちは言葉を後天的な学習によって習得するのではなく、原理となる文法を遺伝的に得ている。フーコーにはここが問題になる。普遍性というものを論拠とするチョムスキーに対し、フーコーはエピステーメーの考え方に明らかなように普遍性や絶対性を受けつけない。時代や場所や所属によって性格も知性も変わるものだからだ。これはポストモダンの論者たちに共通のものでもある。
本質ではなく解釈、中身ではなく容れ物、内容ではなく構造にこそ重点を置く。こうした考え方は現代の私たちの生活そのものにも影響を与えている。美そのものよりも美しく見えることに価値があり、実用性よりブランドロゴに価格がつく。もっと生活によりそっていえば、生まれつきの違いよりも、その後の生き方の違いが重要であったり、結果よりプロセスを重視したりするのは、人間的にフェアな物事の捉え方と考えられている。
私はこの考え方の是非を論じる気はない。是非の問題ではないからだ。
この考え方は、生まれたての赤ん坊の心は真っ白で、環境次第であらゆる可能性が決まっていくとするブランクスレート説を支える。そして、人種や性別、階級など生まれの違いを越えた民主的な世の中をつくる根本でもある。しかし同時に、経験や実績を重んじるあまり成長できないのは努力のためだとする現代的なハラスメントの根っこでもある。
近年になって、ブランクスレート説を真っ向から批判する認知心理学者があらわれた。スティーブン・ピンカーは『人間の本性を考える ~心は「空白の石版」か』上・中・下(NHKブックス)のなかで、ブランクスレート説の有害性を訴える。その流布を現代社会のストレスの要因の一つとみる。たとえば子供に接する親の態度。実際には遺伝に大きく左右される子供の性格や才能を環境によって変えようと過度なストレスを生み出している、と。
生得か経験かという単純な二軸の対立でしか世界を眺められないことが最も危険だ。生得に依れば差別を起こし、経験に依存すれば抑圧的になる。
チョムスキーが政治的な批判を繰り広げる理由は、経験に依存した抑圧的な社会への気味悪さが原因なのかもしれない。

言語の謎が知能の謎

生得か経験か。AIでいえば、ルールベースか機械学習かに当てはまるものだ。あらかじめ、コンピュータにルールを教え込むことは人でいえば遺伝(DNAコードのコピー&ペースト!)にあたる。ルールベースで開発されたAIはルールに沿ってしか行動できない。しかし、ディープラーニングといった機械学習で開発されたAIはビッグデータによってみずから経験を積んでいく。
AIが回答を導く方法は演繹推論から帰納推論への移行したことを指す。ルールベースのAIは前提によって行動が限定されている。前提が間違えばすべてが間違う。演繹推論の常だ。これが機械学習であれば、パラメータの調整でさまざまなデータから正しいもの、必要なものを見つけられるようになる。第3次AIブームになってAIがヘイト発言を学習してしまったニュースが聞かれるようになったのは、前提をもたないAIが生まれたことの表れでもある。今のAIは環境によって何を学びとるかが左右される。
もっと注意すべきなのは、AIの機械学習と人間の経験を同じように論じることができない点だ。AIの学習は短絡的になる傾向がある。複雑な環境や状況を学習に反映しえないための短絡ともいえる。だから、生まれたての雛鳥が初めて見たものを母鳥と覚える刷り込みように、ヘイトを正しいと刷り込むのは人間に対するより簡単かもしれない。
なぜなら人間が行う学習や経験とは、ありとあらゆる情報を潜在的にも顕在的にも摂取し、それを処理しているからだ。生まれたての赤ん坊が言葉を理解していく過程をみればよりはっきりする。私たち人間は言葉の意味を文脈や環境のみならずありとあらゆる情報をさまざまなパラメータを調整して理解している。処理する量は赤ん坊であってもAIの比ではない。人間の言葉とAIのそれはまったく別のものであり、AIがあたかも人間の言葉を解するように振る舞ったとして、それは本当に人間と同じように言葉を扱えているわけでない。理論言語学の研究者から作家に転じた川添愛の『ヒトの言葉 機械の言葉「人工知能と話す」以前の言語学』 (角川新書)を読むと、果たして人間は、AIはおろか人間同士ですら意味のやりとりができているのか疑わしい気持ちになる。
著者の川添は、機械学習のおかげでフレーム問題が解決したとの意見を退ける。フレーム問題で重要になる情報の取捨選択が、機械学習とはいえAIならではの短絡さを脱し得ていないからだ。人間は複雑で曖昧な、顕在化していない(データにならない)情報さえ摂取し取捨選択を行なっている。
言語の謎はそのまま知能の謎であり、そこにはフーコーとチョムスキーが対立したような議論が数多く横たわっている。

意識はデータなのか、アルゴリズムなのか

私たち人が日常でごくふつうに処理し言語化し行動するための情報の取捨選択。盤上にすべての情報が表示される完全情報ゲームである囲碁でさえ、局面ごとの選択肢は10の360乗という天文学的なものになる。私たちは数字すれば10の360乗など比ではないほどの選択肢を持っていながら、日常生活を送ることができる。人にふつうにできて、AIにはこれほどまでに高度になるのはなぜか。その理由を、人の意識や感情に求める考えがある。それでは、AIは意識や感情をもつことができるか。そして意識や感情をもてばAIは人のように判断できるようになるか。
新進気鋭の脳神経学者である渡辺正峰の『脳の意識 機械の意識〜脳神経科学の挑戦』 (中公新書)冒頭で哲学者ジョン・サールの次の言葉が紹介される。

脳を研究して意識を扱わないのは、胃を研究して消化を扱わないようなもの

『脳の意識 機械の意識〜脳神経科学の挑戦』

「中国語の部屋」で有名なサールについては以前も紹介した。鋭くAI批判を行なった人物の至言に導かれて、渡辺は意識を人工的に再現できるかを論じていく。
この意識とはいかなるものか。渡辺はクオリアやニューロンといった理論をもとに意識というものを解明しようとする。意識を人工的に作成するモデルを具体的に検討する。スリリングである種、狂気じみていながら、非常に魅力的な論考だ。意識の人工モデルを突き詰めれば、人の知能が生得と経験のいかなるバランスによって成り立っているかもわかるのではと期待される。興味深かったのは、ディープラーニングの核心的な技術である誤差逆伝播法が日本の理論脳科学研究者が発明したことだ。とはいえ、誤差逆伝播は人間の脳で生じるものではないという。人間の脳がどのような法則で学習を行なっているかはまだまだ解明すべき点が多いというわけだ。
誤差逆伝播は実用的なアイデアである。それはAIを恐ろしく進化させた。しかし、それだけで人間の脳を同じになるわけもない。意識は、データなのか、神経アルゴリズムなのかは人の脳とAIの半球ずつを繋がれば解明されるという。
言語を習得するための文法とは、あらかじめ与えられたデータ(遺伝)なのか、神経アルゴリズム(後天的に学習するもの)なのか、積年の問題もAIによって解決の糸口をつかみかけているのかもしれない。


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