大串祥子|漆黒の闇の歩き方~空想旅行ガイドブックとしての『少林寺』~
時代は変わった。何もかもが逆さまになってしまった。世界が嫉妬するほど拡大しつづけた豊かな隣国の民は、疫病で一転、寄る辺なき闇夜をさまよう旅人となった。
日本という国で、本当の暗闇というものを知っている人はどれほどいるのだろう。早朝の読経を撮るため、朝4時に起きる。真っ暗闇の山道に足を踏み出す、いや、踏み出す以前に、宿の2階からドアの位置を手で探り当て、足で階段を見つけるのが先だ。凍てつく空気で、外に出たことを知る。壁伝いに道まで進み、坂道で転ばないよう、恥ずかしいほど慎重に歩く。犬の糞が落ちていないことを祈りながら。
しばらく歩くと、だんだん目が慣れるが、依然よちよち歩きのダウンヒル。その脇を小僧さんたちが早足で下りていく。よかれと思って懐中電灯をつけると、まぶしいからやめてくれ、とかわいく叱られる。
写真家に言われたくはないだろうが、現代の人間は視力に頼りすぎている。だが、知覚というものは、何かを封じられれば、別の能力が目を覚ます。
五感では感じられない、人の気配、武術におけるインパクトの気、何かが起きる予感、とっくに忘れたと嘯いた悲しみ、そして懐かしさ。
名も知らぬ僧侶が、後ろから現れ、そっとマントウを手に握らせる。礼を言おうとすれば、少林寺特有の片手の合掌をして、背中は闇に溶けていく。
闇夜は恐ろしい。なのに、少林寺で一番恋しいのもまた、光なき闇だ。右も左も上も下も前も後ろも分からない、言葉も通じない異国の土地で、撮影を終え、ひとり真っ暗な道を帰るとき、銀色の月が、心を透過し突き抜ける。離れがたき聖なる山の、俗世を忘れる美しい闇。
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著者名|大串祥子
書名|『少林寺 Men Behind the Scenes II』
144ページ/ソフトカバー
書籍サイズ|25.7cm×18.8cm×1.1cm
発行日|2017年1月13日
発行|リブロアルテ
発売|メディアパル
*本記事掲載の写真は全て、本書籍に収録されています
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