二人展《空はシトリン》|巻頭エッセイ|森 大那|曲がり角へと歩いてゆくだけ
宮沢賢治は鈍い。それは彼の武器だった。
これまで宮沢賢治は、その作品群が無数の観点から読解されてきた。のみならず、遺された膨大なテクストは後世の人々の創造の源泉となり、あらゆる芸術ジャンルで派生作品が創られている。
彼に匹敵するほどのフォロワーを生み出せた作家は世界規模でも例がほぼ見当たらず、わずかにアメリカのエドガー・アラン・ポーが思い浮かぶだけだ。
しかしそれは、彼が時代のなかで先進的であろうとしたからではなかった。反対に古くあろうとしたのでもなかった。
宮沢賢治は、表現のあらゆるレベルで、意図的に「鈍く」あろうとしたのだ。
宮沢賢治の鈍さとは何か?
試しに、彼の詩を一篇書き写してみると、まるでそれが彼自身の拠り所だとでも言わんばかりに、ひらがなの曲線を偏愛していたことが分かる。なればこそ、文中の漢字はその姿が際立つ。ひらがなの多用による視覚的刺激の減圧は、文字使用のレベルで彼が目指した鈍さだった。必然的にそれは、読みのスローダウンを読者に促す。
詩集『春と修羅』を開けば、景色の全体が掴めると思うときに細部が見えず、細部が輪郭を持つときに周囲の光景が見えない。読者はそこで、鮮明と茫漠のトレードオフを体験することになる。内容に仕込まれたこの鈍さは、小説(童話)として書かれた作品の鮮明さと好対照をなす。
読者を、新たな空想、新たな創造へと、抗いがたく誘い出す、地と図の共犯関係だ。
表現上つい求められがちな、像の輪郭、観念の輪郭の鋭さを、彼はゴールにしない。むしろ、造語や見慣れぬ擬音語も使いながら、五感を刺激し、五感が混淆する、複雑な情報空間を生み出す。
そうして生み出される鈍さへのこだわりは、詩のスタイルの変遷を防ぎ、彼の作品世界を一貫した信念の上に築き上げることを可能にした。
それは首都に住む前衛詩人たち、常に表現の最前線に居続けようと、国内外の芸術の動向を常に注視し、過去の己を自ら乗り越えねばならない宿命に追われる者たちが生きられない生だ。
だがこれは、どちらかがよいと言えるものではない。
鋭くあれば世間からは理解されず、鈍くあれば世間からは見向きもされない。
彼の鈍さが意図的に徹底されたものだと世間が気づいたとき、ようやく宮沢賢治は、誰もが知る人物となった。
彼だけに発見できた鈍さこそ、私たちが宮沢賢治のオリジナリティだと感じ取っているものの正体だ。
そこで私たちは、宮沢賢治が偉大なる起源であるかのように感じてしまう。
本当は、それは麗しい錯覚に過ぎない。
芸術家は、起源ではなく、いつだって、過去から続く流れの「曲がり角」としてある。
何かの影響を受けていない芸術家はいない。
だから、賢治作品から影響を受ける読者たちもまた、「次の曲がり角」だ。
人間は誰もが、果てしない受け渡しの途中の一人として生きている。
このたび、影山多栄子、永井健一というふたりの芸術家が、新たな曲がり角として私たちの前に現れる。
角の向こうに何が見えるのか、それは、作品という場を歩いた者だけが知ることができる。
連続性、それは何ものによっても打ち砕かれない。
姿の見えない起源の反響としての私たち。
それが不確かで心許ないなどとは、誰にも言わせない。
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