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文芸サークル、またはclose――何かを終わらせるということについて

もう四半世紀前になる。私の通った大学には文学系のサークルが学校公認だけでも三つか四つあって、創作系、批評系、児童文学系と分かれていた。私の入っていたサークルBKは批評系で、ゼミや読書会と称して好きな本を持ち寄り、発表者がレジュメを作って批評しあうということをしていた。私はそういうことをしてみたいなと思ったし、単に勧誘を受けたというだけでなく、この人の話を聞いてみたいという先輩もいて、サークルに入った。

でも部員は減る一方で、毎年四月に新入生勧誘の出店を出すのだが、入ってくる(主に)一年生は一人か二人。はじめ四、五人入ってきて良かったと思っていても、半年過ぎて人間関係なんかが落ち着いてくると残っているのは二人程度という低調ぶりだった(それでも四年生や院生まで含めると十数人の部員がいた)。


そんな年が数年続き、学部三年になった私は二年生と話しあい、文学系サークルの合併統合を模索した。創作系のサークルGKと掛け持ちしていた創作意欲の高い部員が複数いて、その人たちに合併の話をしてみてくれないかと提案してみたが結局実現しなかった。

学校側からの圧力もあった。私が入学する数年前に建て直したというサークル棟は鉄筋コンクリート打ち放し吹き抜け地下一階地上五階建ての、無機質だが素晴らしい建物で、昔からある五十ほどのサークルが部室を割り当てられていたが、活動の停滞しているサークルは廃部するか部室を明け渡すかするように言われていた。事実、戸が開いているところを見たことのないサークルも散見されたし、演劇系や映画系、音楽系、絵画系のサークルなどは大所帯で部室一つでは足りないだろうなと感じていた。部室がなく学生食堂の一角に集ま(り続け)るサークルもあって、活動の実態がなければ既得権益は譲り渡さなければならないと思わないでもなかった。


BKは結局、私の代の三年後に誰もいなくなった(ようだ)。誰が部を潰したのか犯人捜しをしようとは思わない。私は大学を出てから暫くフリーターをしていたから、年に数回は部室へ行った。「黒煉瓦」という名前が付けられていたのだと記憶する、部員が来て書く歴代のノートがあって、それが部室の隅に百冊以上積み上げられていた(私の代で百三十何号に至っていたような覚えがある)。「だーれもいない」と書いた日本文学科の先輩女史のことを思い出す。彼女は梅雨の時期になると鬱になるという、何とも文学的な人だった。


もう部員ではない、学生でもない私はこのままこのサークルが無くなっていくのだとしても、このノートだけは残したいと思い少しずつ自宅へ持ち帰った。一年かけて持ち帰り段ボール三箱ほどになっただろうか、フリーターをやめて福祉施設で働き始めた私はやはり勝手に持っていてはいけないと考え直し、部室へ戻すことにした。その後一度だけ行った部室は鍵が替えられ入れなくなっていた。鍵を返したのが今から二十年ほど前になるだろうか。


鍵を替えたということは、廃部したと大学が見做したということなのだろう。それ以来部室には行ってないから判らないが、部室に残されていたものは無論廃棄されてしまっただろう。我々BKの部員は何より「書く」ことを志す人間であったから黒煉瓦が失われてしまったことを残念に思う。こう書いていると、読み、書き、話した黒い椅子や白いテーブル、壁一面に貼られた映画のチラシなどを思い出す。


福祉施設で働き始めてからの私は、しばらくひどく厭世的であった。テレビを見るのを止め、ラジオだけを聞いて生活した。沢山の詩が書けた。孤独である分、一人で話す言葉が詩になった。学生の頃には読めなかった作家の本も読めるようになった。読んで考え、書くことで生きていた。


そして遁走的でもあった。働いてさえいれば若く身一つで好きなところで生きることができた。家族ができるまでの八年ほどの間に何度か転居し転職した。言葉を使って生きる自分を試す修業時代であった。何か人の営為を「終わらせること」。先達が続け維持する努力を重ねてきたことを「終えること」。それが自分の役割であるような気もしていた。

closer――閉じる人、終結させる人、解決人と呼ばれる人がいる。憎まれること、恨まれることもあるかもしれない。でも今ある条件からcloseすることが良いと判断し、その努力をすることもまた、人の世に求められる人の働きなのかもしれないと、今でも思う。

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