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海外経験ほぼ無だけど女一人でヨーロッパ行った〜③ベルリンの壁他

※本投稿にセンシティブな画像はありません



ブランデンブルク空港


ドイツに着いた。

空港にいるだけで幸せいっぱいずっと楽しい!!!!!
もはや私なにもしなくても楽しい!!!!!


機内食食べてたのでお腹は空いてなかったけど、
テンション上がりすぎてとりあえずヨーロッパのパンが食べたい!!!!!!

ということで、空港のパン屋に入った。

全然わからないけどヴィーガンって書いてあるサンドイッチがあったから、水と一緒に買う。
私は乳製品アレルギーなので、とりあえず「ヴィーガン」て書いてあるものを食べれば安全(ライフハック)


空港内のパン屋さんにイートインコーナーがあった

肉が食べたかったな…(本音)

カレーみたいな味ついててめちゃうまだった。


そして水はボルビック!!!
ボルビックーーーー!!!!!!
ボルビックがあれば勝ちです。

軟水美味しい。硬水いやん。

今回の旅程ではドイツでしかボルビックに出会えなかった。


ホテルへ向かう


空港からホテルに辿り着けなくなるのが怖くて、ホテルは空港近くにとった。

ベルリン中心部近くにとれば良かった!!!!!(大声)

みなさん、ホテルは空港近くではなく中心部近くにとりましょう
ましてや私みたいに到着が日中なら尚更……。


ドイツは電車・地下鉄・トラム・バスが全て同じチケットで乗り放題になる。

ゾーンが3つに分かれており、
中心部がゾーンA
少し離れてゾーンB
空港まで含める範囲まで広げるとゾーンC

調べてもわかる気がしなかったけど、普通に観光する分ならゾーンA,Bの乗り放題チケットで充分だったらしい

ホテルを空港近くに取っちゃったので、ABCの乗り放題チケット(ちょっと高い)を買う羽目になった。

いや、ホテルが本当にゾーンCだったかどうかはわからんけど、たぶん…調べるのが面倒で…(手間を金で解決する人間)

空港から電車(Sバーン)が直結なので、とりあえず駅に行ってチケットを買う。


赤いのが券売機
かーわいい。空いてた。

クレカ使えた。
これチケットの裏面。
こっちが表だと思って撮っちゃった。
だってバーコードあったから…。

ちなみに現金は100ユーロ持って行って
50ユーロは首から下げたパスポートケースの中にクレカと一緒に、
もう50ユーロは肩掛けカバンの底に入れておいた。

円安の頂点の時に両替したので17,000円超えてた。
キッチーーーーーーー。
仕方ない、全てはタイミングだ。


チケットが買えたらホームに向かう。

ホームにこんな刻印機があるので、チケットを差し込んで日付と時間を書き込む

こっちが表。刻印機かわいい。
私のネイルが死んでることには触れないでください。


これやらないと、チケット買っても罰金らしい。
私は24時間乗り放題チケットを選んだ。

ブランデンベルク空港の省略コードはBER

移動は全てGoogle Map頼り。
これ無かったら本当に何もできなかった。


ベルリンはかなりメジャーな観光地なので
日本語訳されてる場所も多く
、「駅名が読めない」以外で困ることはほとんどなかった。

ここからウィーン、クラクフと進むと難易度が上がったので、ベルリンに最初に来たのは正解だった。


ホテルの最寄駅、Schönefeld駅に。
読めない。今調べたら「シェーネフェルト」だったらしい。

ドイツ語まじで何もわからないので、Googleと電光掲示板見比べて目視で乗り切ってた。

駅のデザインがあまりにも可愛い
日本より車椅子にやさしいなーって思う場所が
とても多かった。

ホテルへは徒歩5分ほど。
の、はずなのに、Google Map見て見切り発車で出発したら道間違えて超遠回りする羽目になった。

ちゃんと経路まで調べようね(あたりまえ体操)


宿泊先はこちら

インターシティホテル ベルリン ブランデンブルクエアポート

スタッフの方の対応も良くて、とっても優しかった。

受付で名前と住所書いてって言われたんだけど、細部から書いてって最後に国名を書く、日本の書き方とは真逆の住所の書き方が最初全然理解できなくてめちゃくちゃ迷惑かけてしまった
諦めずに会話してくれてサンキューソーマッチ。

まだ「ダンケ」と言う勇気が出ない。

廊下。きれい。
ダブルルーム
バスルーム。
チェックアウト時に慌てて撮ったから
タオルが荒ぶってる

東京からの航空券+2泊で
計108,000円

※細かい情報は①に書いてます


が、チェックイン時点ではまだ部屋に入れる時間じゃなかったので、スーツケースと機内持ち込み用のでかい鞄だけロビーで預かってもらった。
たったそれだけの英語が使えなくて、Google翻訳使った。
先が思いやられるぜ。



いざ、ベルリン中心部へ。

壁の博物館



チェックポイントチャーリーの近くにある「ベルリンの壁博物館Mauermuseum」とは別物です!!!!

こちらはThe wall Museumという名前なんだけど、チェックポイントチャーリーの方の日本語訳がこちらと似てしまうので、ややこしいことになってる。


有名なキスの絵が書いてあるベルリンの壁の通りにある。

小さい建物のワンフロアだけの、小さな博物館。

私はTrip.comで直前に予約してから行ったけど、
普通にその場でクレカで払った方が楽だったと思う

購入証明見せるのにちょっとあわあわして不安だった。

Trip.com価格で1700円ほど


映像中心の展示でした。

実際にベルリンの壁を超えて逃亡成功した人の体験談。

壁を越えられず、殺されてしまった人の話


ベランダに出ると、シュプレー川が見えます。

観光客で賑わう川も、たくさんの悲劇が生まれた場所。

ベルリンの壁を眺めにいく前にここに来て本当に良かった。

やっぱり観光客で溢れてるところを見るとついはしゃいじゃうし、あの壁のアートも悲しんで欲しくて描かれたものばかりでは無いと思うので間違ったことでは無いと思うけど、
こういう歴史があったことは忘れたくない。


壁の前での人々


ここで観た、壁の建設時、アパートらしき建物から飛び降りる人の動画が忘れられない


ベルリンの壁は4つの段階を経て、最終的な形になった。

最初に作られたベルリンの壁は、1961年8月12日の深夜から13日の明け方にかけて一晩で作られ、西ベルリンをぐるりと囲んだ。
短時間で作り上げるのが第一だったので、壁と言ってもほとんどが有刺鉄線だったそうだ。

このベルリンの壁の建設に選ばれた場所に、道路や野原ではなく、「建物」だった場所がある。

深夜、自分の住んでいる場所が東ベルリンと西ベルリンの境に選ばれたと気づいた住民は、窓から西ベルリンに逃亡した
階段を降りて逃げられる状況では無かったのだろう。

西側から撮影されたその映像には、建物からロープを伝って滑り降りたり、4〜5階の高さから飛び降りる人々が映っていた。そして、降りてくる人を助けようと、たくさんの西ベルリンの住民が集まっていた

いや、西ベルリンの人が東ベルリンの人を助けている、という言葉の使い方も適切でないのかもしれない。遠い国の他人同士ではない、時代が違えばご近所さんであり、お隣さんなのだ

人々が飛び降りた窓は、すぐに煉瓦で覆われたそうだ。

この動画を撮っておかなかったことが本当に悔やまれる…。あまりにも衝撃的すぎて、その場の写真を数枚撮って立ち去ってしまった。

この時代、東側に残されることは、この高さから飛び降りることより恐ろしいことだったのだ。


壁の前で遊ぶ女の子たちの動画も流れていた。

「私の認識では、『直ちに』です」

博物館の展示は、壁の崩壊のきっかけとなったシャボウスキー氏の発言で締められた

この博物館、Googleでの評価はまっぷたつ…あまり良くない。
そのレビューにもあるように、おそらく、これらの映像はヨーロッパ圏(ドイツ語や英語)からだと、無料で簡単にアクセスできるものなのだろう

日本語で「ベルリンの壁」と検索しても、崩壊時のニュースを少し観れるくらいで、他の動画を見つけ出すのは難しい。
この、日本ではなかなか見られない動画を見れただけで、入場料分の価値は十分にあったように思う。


イーストサイドギャラリー(ベルリンの壁)


壁の博物館でずーーーんと暗い気持ちになってから、博物館の前の道、ミューレン通りに1300mに渡って並ぶ壁と描かれた壁画を観に行った。
 

東側はアートで埋め尽くされている
ここだけ人だかり

ちょっとみんな聞きたいんだけどさ(突然の語りかけ)
この絵って有名じゃないの!!??
ベルリンの壁で一番有名だと思ってたんだけど、日本帰って「ヨーロッパどうでした〜?」って聞いてきた何人かにこの写真見せたら結構な頻度で「なんですかこれ?」って言われたんだけど…あれ…?たまたま歴史苦手な子が集まってただけ…?人のこと全く言えないけど……


行く前は勝手に広場みたいなとこに壁がズラーーーと並んでいて、みんなゆったり写真撮る、みたいなのを想像してたんだけど、
めちゃくちゃ道路。普通に狭い。

伝わるかな。この幅しかない。
左に僅かに見えてるのが車道で、普通に車がビュンビュン走ってる。

先のキスの絵のところなんて人が常にたくさんいるから、車道にまではみ出して写真撮ってるし、ここ通行したかったら一度車道にお邪魔しなくてはならない。
車道の端は駐車場みたいな使われ方をしているので身の危険を感じる程ではないが、意外な狭さに驚いた。

ちなみにキスの絵は「神よ、この死に至る愛の中で我を生き延びさせ給え」というタイトルの絵で、なんと実際に行われたキスを描いたものらしい。
完全オリジナルな風刺画的なもんだと思っていたから、この日の夜調べてびっくりした。

左の男性がソ連のレオニード・プレジネフ
右の男性が東ドイツのエーリッヒ・ホーネッカー

壁崩壊前の1979年、友愛の証として行われたキスの写真から描かれた絵だそう。

有名な絵だけど、「アートじゃなくて写真の模写のようなものじゃないか」なんて批判もあるらしい。へ〜〜〜〜〜。


ホラーでなんかすき
真ん中の袋状状になっているところは、
立体的に作られていて、中には土が入っており
草が生えている。
唐突なTOKYOに驚く。
日本地区への迂回路……?
ここも少し人が集まっていた。
有名っぽい。

壁画には作者の名前だけではなく、メールアドレスや電話番号、WebサイトのURLまで添えられているものもあった。


壁の西側には広場が広がっており、その先にはシュプレー川が流れている。

西側は観光客ほとんどいないのに、広々としている。
逆だったら写真撮りやすかったのに…
(そんなこと言われても)

西側は崩壊前から壁に近づくことができたから、落書きで溢れてる。


イーストサイドギャラリーも見終わり、さてどうしよう。
本当に無計画に来たので、「ベルリン行ったら壁見よう」しか考えていなかった。


大切なライフハック。
次どうするか迷ったら、飯を食う。

腹が減ってる時の思考回路はまともじゃないですからね。



まずは近くのショッピングセンターに入り1ユーロでトイレを利用。
ドイツでいくつか有料トイレを使ったが、ほとんどのところがコインorタッチタイプのクレジットカードだった
ほとんどのトイレで半額分(0.5ユーロ)のクーポンが貰えるので、買い物前に用を足すと良い。

ちなみにこっちのトイレは、ウォシュレットはもちろん無し、流すボタンは一個 or でかいボタン&小さいボタン、っていう馬鹿でもわかるシステム。日本のトイレ、日本人でも流すとこ見つからないことあるくらいややこしいからこんくらいシンプルになってくれよ。

クーポンを手にし、ショッピングセンターでご飯を探す。
サブウェイにしよー!

あ、このまま渡されるんですか…そうですか…
(そのままハンドバッグに突っ込む)

なぜ日本ですら「注文方法わからなくてこわい(>_<)」と入れない店に、言葉通じない国で入国日に突入してしまうのか。
人生二回目ぐらいのサブウェイ。
ぜんっっぜん喋れなかったけど、お兄さんがなんとか汲み取って作ってくれた。
ノーチーズ!!!だけ必死で伝えた(アレルギー)

考えた結果、とりあえず有名そうなのでブランデンブルク門に行くことにした

バスの時間が迫っていたので、とりあえずサブウェイのサンドイッチを無理やりハンドバッグに押し込み、バス停に向かう。


ブランデンブルク門


イーストサイドギャラリーからバスで20分ほど。

Behrenstr./Wilhelmstr.駅(読めない)で下車し、5分ほど歩いたところにブランデンブルク門はある。

お腹が空きすぎていたので、テイクアウトしたサブウェイをもぐもぐしながら歩いてた。
一応食べ歩きが法律違反にならないかは調べた。
「お行儀良くないのは確かだが、別にダメではない」みたいな感じだった。
まあ日本と感覚同じ感じかな。もぐもぐ。


信号かわい〜〜


カッケーーー!!!!


デケェェェェェェ。

謎のフェンスがあって「?」と思いながら通り抜けたけど、どうやら時間によって閉められて門に近づけない場合もあるらしい
7月のベルリンの日没時間は21時すぎなので、空の明るさで判断してると「え!?もう閉めるの!?」ってのが頻発する。

このときは「へーこれが有名な門なんだ〜」くらいの気持ちでくぐりぬけたが、この後、この広場が鉤十字と群集で埋め尽くされる写真を複数見たときそのスケールのデカさを体感できたので、行っておいてよかった。


虐殺されたヨーロッパユダヤ人のための記念碑


ブランデンブルク門から歩いて数分。

広い、広すぎる。

奥にある背の高い記念碑で終わりではない。
その先までずっと、奥に見える木々まで全部記念碑。
ひと区画まるまるこのオブジェで埋め尽くされている。


わかりやすく説明が書いてあるわけでもないので、腰掛けて食事している人もいるし、

足を踏み入れると子供がかくれんぼしてたりする。

私もたぶん、Google Mapを見ていなかったらなんだかわからなかった。

ここは総統官邸の庭園の跡地だそう。

ベルリンの街のど真ん中で、ここまで大きな土地をユダヤ人への追悼に使う。
それほどのことをした、ということなのか。

ベルリンは贖罪の街だった。


総統地下壕跡


ユダヤ人のための記念碑から歩いてすぐのところに、ヒトラー最期の場所、地下壕跡地がある

といっても、今は何も残っていない

静かな駐車場だ。
なんの変哲もない駐車場だが、ツアー客が固まって立ち止まり、ひとつだけある小さな看板には常に人が集まっていた。

Führer(フューラー):総統の意

ヒトラーはこの地下壕で拳銃自殺した。

以前はネオナチの聖地となるのを恐れ場所は非公開とされていたが、2006年にこの看板が建てられたそう。

いろいろな場所に行って思った、戦争は79年前の話だが、ここ数年〜十数年で状況が変わった場所がたくさんある
きっと20年後とかにまた行ったら、全く違う風景や思想が待っているんだろう。
 



日本料理屋があった
結構いろんなとこで見かけた
絶対「ラーメン」以外なんて書いてあるか
わからずに下げてるんだろうな…おもしろい…


ポツダム広場


壁の跡

ポツダム宣言が受託された場所ではありません!

ポツダム宣言が受託されたのは、ベルリン市の隣のポツダム市。そこから名前をもらった広場だそう。

上の写真の壁の一部は代表って感じで比較的綺麗に保たれてるんだけど…

なぜ……!!!なぜこうなる!!!!
なぜガムをつけてしまうんだ……!!!

日本にない文化すぎてマジで意味がわからない。
シアトルにもガムくっついてる名所あるよね?
なんで?海外ってこうなの?(主語がでかい)

なぜなんだ……!!
なぜそこまでして錠前を……!!!!

そういえばイーストサイドギャラリーにも錠前スポットがあった……

なんでこっちのほうが少ないんだよって思ったけど、定期的に外されてるのかもしれない。



通りかかったシュトレーゼマン通り

のだめカンタービレのオタク歓喜。
ドイツ人感なさすぎて忘れてたけど、そういやミルヒーってドイツ人だったな……。



テロのトポグラフィー(屋外展示)


ベルリンに行ったら!!!!!
絶対に!!!!!
ここに来てください!!!!!!!

あらゆるスポットの中で断トツ1位!!!!!
おすすめです!!!!!

あと100回行きたい。

先が目視できないほどの長さの屋外展示。

22ヶ国語の無料音声ガイド付きの室内展示。

入館料も完全無料。

ここは、
ゲシュタポ(秘密警察)本部
SS(親衛隊)本部
SD(親衛隊保安部)本部
国家保安部
があった、ナチスの恐怖政治の中心地。

ナチスの本拠地は、ベルリンの街のど真ん中にあった。

閉館時間は他の博物館より遅めで20時or日没なので、他で観光した帰りに寄るのもおすすめ。
私が行った日謎に19:45に閉められたけど。日没21時なんですけど。

時間が無かったので、この日は屋外展示だけ観ました。室内展示は翌日、次の投稿にて。


屋外展示が並ぶ場所は、ゲシュタポの地下牢があった場所

茶色い煉瓦が地下牢の跡。
上の写真の場所にあった解説。
基本的に解説は英語とドイツ語が並んでいるので、
Google翻訳をかざすとこんな感じになる。

屋外展示すなわち地下牢跡に沿って、180mに渡り残されているのが、ベルリンの壁

人の手の届く高さまでコンクリートが削られています。

この場所だけは現在フェンスに囲まれて人の手が届かないので、当時のままの姿のベルリンの壁を見ることができる

ところどころ人が通れる大きさの穴が空いている。壁崩壊時、そこから出入りしたんだろう。


展示内容は、ナチスの始まりから戦後まで

冒頭で書いた通り、本投稿にセンシティブな画像は一切ありません。
屋外展示はその足の踏み入れやすさからか、センシティブな画像はそもそも並べられていませんでした。

この細かさの展示が延々と続く
話は世界恐慌から始まる

膨大すぎて正直心折れそうになったけど、「何のためにここまで来たんだ」って言い聞かせて踏ん張った。

印象的だったものをいくつか。(これでもめちゃくちゃ削ったんだ…)

ヒトラーのポスター


ベルリン市内の、強制収容所と刑務所


ナチスのプロパガンダポスター
↑の訳


ヒトラー50歳の誕生日


小学生の教科書?に出てくるヒトラー


失業率の低下に関するプロパガンダポスター。
解説には「失業率を下げる措置は前政権の時から開始されていた」と書かれている


1935年の10月〜翌年3月までのうちの6回の日曜日で、
みんなで安いシチューを食べ、浮いた食事代を寄付させられた。右のポスターには「まともなドイツ人は貧しい人のためにシチューの日を行う」と書かれている。寄付は国民の義務になっていった。


「悪い遺伝子」がアルコール依存症、犯罪、非社会的行動の原因であり、経済的負担がかかっているとするプロパガンダポスター


同性愛者への迫害の法律
↑の訳


この画像の訳↓
ユダヤ人経営者による反抗。
「アーリア人」はヒトラーが使った言葉で、最も優れたヨーロッパ人種を表す。金髪青眼とされた。
ヒトラー自身がその特徴に当てはまってないが…。
看板の訳が違っちゃってるな。
ユダヤ人の医師と弁護士は公務から外された。
資格を剥奪されたユダヤ人弁護士たち


子供が遊ぶサイコロゲーム。
左に大きく「ユダヤ人、出てけ!」
右下のイラストのところに「パレスチナへ出発!」
と書かれている。


1936年、ベルリンオリンピック


日独防共協定が結ばれる


1939年9月1日、ヒトラー(立っている)が開戦を宣言


ユダヤ人への中傷プロパガンダ。
ユダヤ人はこの星の着用を強制された。
右上のポスターには「この標識(星)を見たら…」
と書かれている。


上の新聞記事には
「『この戦いは必ず勝利で終わらなければならない。
総統からドイツ国民へ新年の呼びかけ」
下の看板には
「16〜70歳の男性は地下壕に入れない(行動するべきだ)」
と書かれている。


お疲れ様です!!!!!!!
読んでくれて本当にありがとう!!!
書いてよかった、あげてよかった。


 

ひとつひとつ翻訳してったら、2時間あっても足りなかった。
室内展示は全く見れなかったので、次の日も来ることにする。


一日目、終わり


スーパーで水だけ買って、日没の3分前にホテルに駆け込んだ。ホテルの近くには全然お店がないので、ベルリン中心部で買ってから帰らねばならない。
女一人旅、できるだけ安全に過ごせるよう、日没までにはホテルに帰ると決めていた。初日からギリギリ。(翌日はもっとギリギリ)


海外行っただけで価値観変わったりなんてしないよなぁって思ってたけど、めちゃくちゃ変わった。びっくりした

来る前に調べていたことで、
ナチスがあれだけのことをやったのに、今ドイツがヨーロッパ諸国とうまくやれているのは、過去の過ちへの向き合い方が〜」みたいなことがあったんだけど、納得。


街中に残された負の歴史の跡。

歩けばそこら中にナチス時代の建物の跡地や、残されたベルリンの壁がある。

しかも、個人経営のところ以外はほぼ無料

そして、絶対に美化しない、演出して魅せないという頑なな意思をとても強く感じた

いくつもの街を巡ったけど、ここまで頑なに負の歴史を演出して見せなかったのは、ベルリンだけだった。

彼らがやったことは本当に本当に愚かなことで褒められることではないんだけど、
これはすげぇわ。ここまでやったら、許されなくても認められるな。って思った。

日本はここまで大戦教育がされているだろうかって思ったし、国交が命綱の大陸国と島国日本の違いもとてもとても考えた。もし日本が大陸国だったら、こんなぬるい教育の仕方じゃいられなかっただろう、とも。

日本がダメだっていうつもりではない。
ここまで自由にいろんな情報にアクセスできる国はそうないだろう。
でも、日本は「隠してないよ」「知りたかったら、調べれば出てくるよ」ってスタンスだ。

ベルリンは違う。
街中が叫んで、訴えかけてきた。
どれだけボーッと歩いていても、歩けば様々なものが目に入ってくる。
絶対に覚えておけ、絶対に繰り返すな、とあらゆる方向から責められているようだった。
本記事ではまだ触れていないが、無料で入れる資料館に一歩足を踏み入れれば、悲惨で凄惨な写真が並べられている。

かつて、ユダヤ人や同性愛者への迫害に使われた「プロパガンダ」という手法を、今ドイツは全く逆の方向に向けて叫んでいるのではないか、と感じた。

今はそれが正しい主張のように思えるけど、もし間違っていたらどうしよう。これが間違いだったと気づいた時、もう止められないところまで来てしまっていたら、と考えて恐ろしく感じることもあったが、このあとアウシュヴィッツに行ってユダヤ人迫害の始まりの話を聞いて、気持ちに変化があった。その話はその日の記事で書こう。




ずっとずっと恋焦がれていた国だった。
みんな本当に優しくて、あちこちで困る私を快く助けてくれた。
正直、アジア人差別を受けることは覚悟していたんだけど、全く感じなかった。

七月末のベルリンは、日陰に入ると寒いくらいだった。

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