客観という不思議
よく「客観的に見て」という表現を聞くことがある。
聞くたびに、不思議な気持ちになる。
客観を辞書で調べると…
1 観察・認識などの精神活動の対象となるもの。かっかん。⇔主観。
2 主観から独立して存在する外界の事物。客体。かっかん。⇔主観。
3 当事者ではなく、第三者の立場から観察し、考えること。また、その考え。かっかん。
と出てくる。
果たしてそんなもの世の中に存在するのだろうかと不思議な気持ちになるのだ。
あるとすれば、多くの他の人が言っていることを根拠にして説得力を高めるための表現なのかなと思う。
例えば、地球は丸いとか、昼間は明るくなるとか、議論の余地がないことに客観とか主観という区別は必要ない。
つまるところ、人の口から発せられた時点で主観的な言葉なのだという前提でコミュニケーションを取るのだということ。
客観をまやかしに使う分かりやすい表現は「みんな言ってるよ」。
これを多用する人をワシは信用しない。
みんなって誰だろうか。世界中の人に聞いた訳でもあるまいし。
こんな分かりやすい意見誘導を真に受けるほどワシは素直でも無垢でもない。
客観という表現の正体は和の文化なのかなと考えている。
「多くの人の意見」という金看板に弱い人が大半なのだろう。
意見まで合わさないと関係性を保てないのなら、心が通う関係性を望むのは難しい。
意見を交わし合うことでお互いを分かり合えることが多いと実感する。
付和雷同に表される幼稚な文化が蔓延る環境はいまだに多いのかなと思う。
人と違うということ、別に普通だし、恐れなくていい筈なのにね。