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#28 自分、破壊中

今日は9月17日。今夜は中秋の名月だそうです。
我が家の長女が本日12歳になりました。

12歳の夢

仕事はね、小学校の先生ね。中学は嫌よ。部活があるでしょ。
ほら私、席替え好きじゃん?
席替えってさ、夢があるのよ。
毎日やってもいいぐらいみんな沸くからさ!
それでね、子どもは5人欲しいからね。
大家族の方がおもろいじゃん。
そうなると…?大学出てから…?あんまり働けないか。
ってことはあれか。子ども5人をヤシナエル?旦那さん?
…そこそこいい大学入らないとだな、うんうん。

娘が語った、夢とその道のり

席替えしたさに教職を目指すというかわいさもありながら、なんと現実的なことまで考えているのだ娘よ。笑

ユーコ、12歳

私が12歳だったのは27年前。
誰に言っても信じてもらえないが、12歳までの私はほっそりしていた。

市内の小学校の陸上大会、水泳大会、体操大会があれば、田舎の小学校だったから「そこそこ運動ができる子」はその都度大会に向けて練習をした。
私は陸上ではハードル走、水泳は補欠だったけどクロールで、体操はマットの選手として出場。
自分でも幻だったのでは?と思うが脚を170°ぐらい開脚してお腹までペタンとつくことができるほどの身体やわらかガールだった。
今は別の意味でとても柔らかい。むにむにしている。笑

そんな12歳の私の夢もまた、教員になることだった。

娘ほど具体的に教員になりたい理由は無かったけど、あの頃の身近な大人は親と先生だけだったからではないか?と思う。

つまり世界が狭かったのだ。

こわい

初めて「先生」という立場で誰かに何かを教えたのは専門学校に通っていた頃。児童英語科という学科で、英語教育を取り入れた幼稚園に実習に行った。

何歳のクラスで、どんな内容をやるかは事前に聞いていて、必要そうなお歌やvocabularyを復習して臨んだそこで、私はたったの5分で打ちのめされた。

ぜっっんぜん思っていたのと違う!ちびっここわい!

当時は「子ども」という存在への理解も浅かったため、未就学児とはこういう感じか!おーい!待て待てい!とただただ慌てふためいて終わったのだ。
アルファベットのうたも、Hello how are you?のうたも、私が脳内でシュミレーションしたものとは全く違う光景(つまり現実)が目の前にあった。

児童英語は無理だな私には。と当時のクラスメイトに電話をしたことを覚えている。

それでも「先生」になりたかった私が次に経験したのは個別指導塾の講師のバイトだった。今度は中学生相手だ。打ちのめされはしない!だってちびっことは違う…

違くなかった。笑

どんなに予習して臨んでも、いつだって授業は思っていた通りには進まなかった。ここを詳しく教えてあげよう!というところではない、「え?」という部分ばかりを質問される。

もちろん、専攻していた英語ではさほど困らなかったが、人手不足だからと頼まれた数学や社会のコマでは毎回クッタクタに疲弊した。

もはやこの頃には「先生…向いてないな。怖いな。」と夢が夢ではなくなっていて、それでも教職を取りたいからと両親に大学に行かせてもらった手前、教職課程の単位を取ってはいたがそれは惰性のような時間でしかなかった。

「教える」ことの恐れ

「教える」ことの恐れは、多くの人が感じる感情だろう。なぜなら、教える側には「知識が完全でなければならない」「間違えられない」というプレッシャーがあるから。この恐れの根底には、以下のような要素が含まれていると私は思う。

完璧主義のプレッシャー: 「〇〇でなければならない」という固定観念に縛られ、失敗や間違いを許せない自分がいる。教える立場に立つと、正解を常に持っていなければならないと感じてしまう。

自己評価への恐れ: 教えることは自分の知識や能力が直接評価される場面でもある。そのため、他者の反応や理解度に対して敏感になりすぎ、「ちゃんと伝わっていない」「教え方が悪いかもしれない」と不安になることが多い。

「型」にはめる教育: 教えることは、しばしば「こうあるべき」という型を伝える行為であり、自由な発想や個々の違いを見逃してしまうことがある。この型に自分も相手も縛られると、教える側も苦しくなる。

そう。公務員家庭に生まれ、今思えば厳しく育てられたから根付いたのであろう私の価値観。
両親はまったく悪くないが、最近私はこの価値観に苦しんでいる。

誰かに教えるならば10倍以上の知識を持っていなければ「ならない」
授業はスムーズに進めなければ「ならない」
教員ならば子どもを好きでなければ「ならない」
こんな風に日々の暮らしの中でも私はたくさんのshould、have to、mustに縛られていることを、コーチングの学びの中で気づくことができた。

そして気づいて苦しんでいるのが、今。

自分の中で、完璧でなければならない、失敗は許されないという固定観念に気づいたとき、正直、自分を縛りつけていたのが自分自身だという事実に直面し、混乱した。両親の影響で築かれた価値観は、無意識のうちに私の「あるべき姿」を規定していたからだ。

コーチングの学びの中でそれに気づくことができたが、その価値観から抜け出すのは簡単ではなかった。むしろ、気づいたからこそ、自分が長年抱えてきた「べき論」とどう向き合えばいいのか、さらに葛藤することになったのだ。この気づきはまさに、今も私にとっての大きなテーマ。

コーチングでの「導く」ということ

コーチングは「教える」のではなく、相手の中にある答えを引き出すプロセス。ここで重要なのは、コーチが「正解を持っている」という前提ではなく、相手自身が答えを持っているという考え方だ。

答えはクライアントの中にある: コーチは、知識を教えるのではなく、質問やフィードバックを通じて、クライアントが自分の中にある答えや解決策を発見する手助けをします。これにより、クライアントは自分の力で答えに辿り着く達成感を感じられます。

共に成長する関係: 教えることが一方通行であるのに対し、コーチングはお互いに学び合う双方向の関係です。コーチもクライアントから学ぶことがあり、共に成長していく感覚があります。この点が、教えることのプレッシャーを感じさせない大きな違いです。

自分の価値観を押し付けない: 教える場面では自分の価値観ややり方を伝えることが主ですが、コーチングでは相手の価値観を尊重し、その人らしさを引き出すことが目的です。「〇〇でなければならない」という考えを解放し、相手の選択肢を広げることが重要です。

ぶっ壊せ、自分を。

コーチングの世界で学び続ける中で、一つずつ「こうあるべき」という枠を壊していく作業を続けている。
相手の中にある答えを引き出すプロセスを通じて、私自身も自由になりつつあるのだ。クライアントと一緒に考え、気づきを共有し合うその瞬間は、まるで私自身の殻が破れていくような感覚がある。

「教える」ことのプレッシャーに押しつぶされていた私が、今ではクライアントと共に「導く」ことで、自分自身も成長していると感じられるようにもなった。

今後も、コーチとして一人ひとりのクライアントと向き合いながら、自分の「あるべき姿」から解放されるプロセスを楽しんでいきたい。
教えることの恐れから解放され、相手と共に進む道を歩む——そんなコーチとしての未来に、私は希望を感じています。

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