田子高信(石川高信)
石川高信(南部家から入って津軽方面を支配した智将)の足跡をたどる町歴史講座の記事。
石川高信(いしかわ たかのぶ)は1495年に南部家・第22代当主である南部政康の次男として、南部氏の本拠地・聖寿寺館(本三戸城)にて生まれました。
田子館を居館とし、田子高信を名乗りましたが、文武に優れた武将だったようです。
弟には南長義、石亀信房、毛馬内秀範がいます。
1553年、父・南部安信は津軽地方を平定し、田子高信(39歳)は石川城に入って石川高信と改名し、津軽を統治した。
第24代・南部晴政からも信頼を受けており、永禄8年(1565年)に石川高信の子・田子信直(南部信直)が、南部晴政の長女と結婚して、南部家の養嗣子となり聖寿寺館に入っています。
1566年より、檜山城主・安東愛季が南部領に侵攻しており、鹿角郡獲得を目指しますが、石川高信(74歳)は1568年に南部晴政、九戸政実とともに撃退しました。
この頃が、南部家の最盛期となります。
しかし、1570年、嫡子が生まれなかった南部晴政は56歳で、嫡男・鶴千代(南部晴継)を設けました。
そのため、養子に入っていた石川高信の子・南部信直(23歳)と、にわかに家督争いが生じます。
その不穏な南部家を突く形で、大浦城の大浦為信(津軽為信)が主家・南部家に謀反を起こし、元亀2年(1571年)5月5日未明に堀越城から出陣すると、石川城を襲いました。
この時、石川高信は妻子共々自害したともされています。(享年77)
そのため、石川城は津軽家の板垣将兼が守備を任されており、以後は大浦氏(津軽氏)の領地となりました。
ただし、石川城は失ったものの、生き残ったとする説もあり、1572年に津軽で起こった反乱を鎮圧したともされ、没年は1581年とする場合もあります。
なお、石川高信の次男・石川政信(いしかわ-まさのぶ)が石川家を継承したとする説もあり、1572年に津軽為信は妹・久を、その石川政信の愛妾に差し出しています。
ただし、その石川政信も討たれたとも、呼び出されて毒殺されたともあります。
石川高信の嫡男で南部家の養子となっていた南部信直(石川信直)は、後ろ盾を失ったためか、1572年に南部家の相続を辞退しています。
※1576年に妻(南部晴政の長女)が死去したので、辞退したともあり、年代は不明。
南部信直(石川信直)は、田子城に入ると、その後、刺客の脅威から逃れるため、南部家重臣の北信愛の剣吉城や、八戸政栄の根城などに身を隠したと言います。
1582年に南部晴政が病没すると、その直後に南部晴政の実子・南部晴継(享年13歳)が病没していますが、当然、暗殺説もあります。
父の葬儀の帰り道で、夜陰に紛れて暗殺されたとの説もあります
石川城は、弘前城の築城が開始されると、資材などが転用され、廃城になった模様です。(WEBより引用)
町歴史講座は専門家からのガイドで、当時を想像できてきっと面白いだろうと思います。