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1月30日は、3分間電話の日&孝明天皇例祭&赤穂事件:吉良邸へ討ち入り
【3分間電話の日】
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1970(昭和45)年1月30日、公衆電話から市内通話の料金が、3分/10円に設定されたことにちなんで、記念日が設けられています。
それまでは、料金:1通話10円、時間:無制限でした。
電話機自体が各家庭に1台ではなく、商店や集会所に設置され、その地域で共有して使われていた時代、市外へ通話可能となったのも、1968(昭和43)年くらいからのことだったため、物珍しさから、長時間電話が後を絶たない状況にありました。
そのため、急を要する時や、本当に必要な時に電話が使えないとのクレームが頻発したため、時間制限が設けられました。
【孝明天皇例祭】
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孝明天皇例祭は、宮中祭祀として執り行われる宮中行事のひとつで、1867年1月30日(旧暦:慶應2年12月25日)に御崩御された、第121代・孝明天皇を祀るための祭事です。
諸外国からの開国圧や、明治維新へと向かう、混乱した国内情勢といった激動期の天皇として、「攘夷思想」の表明、「公武合体」による国力強化、妹の和宮(かずのみや)を江戸幕府第14代将軍・徳川家茂(いえもち)に嫁がせる、幕府と連携し、国力強化を図り、近代天皇制の基礎を築いた孝明天皇の御崩御日は、1874(明治7)年〜1912(明治45)年まで、国の祭日として設けられていました。
現在では、宮中三殿のひとつでもある「皇霊殿」と、天皇の墓である「陵所」において、祭典が執り行われています。
《宮中三殿》
皇居・吹上御苑の東南に位置する、賢所(かしこどころ)、皇霊殿(こうれいでん)、神殿(しんでん)を指しています。
【赤穂事件:吉良邸へ討ち入り】
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1703年1月30日(旧暦:元禄15年12月14日)、大石内蔵助良雄(よしたか)ら旧赤穂藩士47人が、吉良上野介義央(よしひさ)邸に討ち入りし、吉良を討った「赤穂事件」が起こりました。
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《ごく簡単な経緯》
それまでも、ちょくちょく吉良上野介義央からモラハラまがいのことをされていた、赤穂藩主の浅野内匠頭長矩(ながのり)が、鬱憤等も相まり、高家旗本の吉良上野介義央を、江戸城の松之大廊下で斬りつけてしまう事件が発生。
折り悪く、その日、江戸城内では、幕府が朝廷の使者を接待している真っ最中で、場所柄もわきまえずに刀を抜いた浅野に対し、時の江戸幕府第5代将軍徳川綱吉は大激怒。
浅野側:即日藩主切腹・改易、吉良側:お咎めなしとして、浅野側だけに重い処分が下されました。
改易=身分や家禄を没収されること ≒ お取り潰し。
この判断に対し、浅野家家臣達は反発。
筆頭家老だった大石内蔵助を中心に、主君の敵である吉良を討ち取るべく、吉良邸に押し入り、吉良上野介を討ちとった一連の流れが、赤穂事件と呼ばれています。
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《赤穂事件の受け取り方》
ある説では、元よりあまり良い評判のなかった吉良上野介に対して、浅野内匠頭はよく耐えていた、赤穂浪士たちは主君・浅野内匠頭の死に、自らの死をもって忠義を尽くしたとされ、当時の、目上を敬い、主君に忠義を尽くすといった儒学の朱子学思想が強かった時勢もあり、割と赤穂浪士や浅野内匠頭に対しては、好意的な意見が多めでした。
歌舞伎でも、吉良 ≒ 敵、赤穂 ≒ 善の構図で描かれていたことから、赤穂浪士の行動を支持する声が加速されていきました。
今日でも、時代劇の「忠臣蔵」では、赤穂浪士をメインに据えた作品が数多く見られます。
しかし、新たに発見されている数々の史料では、浅野内匠頭は癇癪持ちで、大石たち家臣も手を焼く時があった(栗崎道有記録)とされる文書が発見されていて、その見方は変わりつつあります。
加えて、2010年代以降の教育現場界隈では、会社や上司への忠義を意識させ、個を疎かにしてしまうとの懸念から、忠臣蔵はあまり好まれない傾向にあります。
《余談》
赤穂事件が起こった旧暦の日付けの12月14日は、忠臣蔵の日として、記念日のひとつに制定されています。
(以上、ネット検索より)