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物作りにおける意識の変遷
私は物を作るのが好き。
民芸品のような実用性があり、尚且つその中に美があるものが好き。
小物類、洋服、アクセサリー、革小物、糸、編み物、お菓子、ジャム等々。
あと、絵を描くことと、ピアノを弾くことも。
それに対する意識の変遷を綴ってみようと思う。喉元過ぎればなんとやら、で人は忘れてしまうものだから。
私は指摘されるまで自覚がなかったのだが、作っている間は罪悪感を抱え、出来上がったものに対しては即行でdisっていた。
「こんなに酷評する人もそうそういないよ。」って言われた。
こんなの大したことない
売っているものに比べたら…
無意味だ
そう評価しているから、作る行為に対しても否定的になっていたし、やましかった。
ノートに書き出しながらオポノポノをして、
概念をとって、
時には子供の頃の記憶や過去生を思い出して怒ったり大泣きして、
という取り組みをしてきた。
1年かけて、楽しく作れるようになった。
作っていてもdisらなくなった。
少しずつ、品々に素晴らしさを見いだせるようにもなってきた。
だから、作っている間がどれだけ苦しかったかはうろ覚え。
今ちょっと(?)苦しいのは、私が作るものは美味しいし素晴らしいけど、誰もその真髄まではわかってくれないだろうな、と切り捨てているところ。
安心して他者へ手渡せないところ。
きっと大事にして貰えない、とどこかで思っている。
私の中では素晴らしくても、一度外へ出してしまえばゴミ同然のように役にも立たず無意味である、と。
頭では、私が作品を心底愛してあげれていれば、現実ではそのような扱いを受けないとわかっているけれど、何度も味わってきた悲しみと恐怖が警笛を鳴らす。
私の中のポンコツなプログラムがそう作用している。
今は、そういう葛藤がある。
私の中で、私が生み出すものは素晴らしいと自己完結すればいいだけで、他者の評価など無関係なのだ(というか、自己評価=他者からの評価)と肚落ちすればいいたけなのだが。