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SS【風の便り】#シロクマ文芸部
お題「春と風」から始まる物語
【風の便り】(1788文字)
春と風便りきたりて友を待つ
そんな俳句もどきが心に浮かんだのは、生まれて初めて『風の便り』を受け取ったからだ。『風の便り』ってどういうものなんだろう…?ずっとそう思っていた。けれど受け取ってみるとすぐに、ああこれか、とわかった。朝、窓を開けると、昨日まであった冬の残り香は完全に消え、新鮮な春の匂いの中に風の便りが浮かんでいたのだ。
まぁ、そう言っても、わかってもらえないかもしれないけれど。
この世界は実際に体験しないと、なにもわからないようにできている。
風の便りは懐かしい友からだった。もうすぐここに来るらしい。彼は今でも変わらずにいるだろうか。
…いや、変わらないということはあり得ない。同じように見えるものさえ毎日変わっているのだから。目玉焼きだって、毎日微妙に形が違う。ぼくが今朝焼いた目玉焼きは、片方の目が崩れて泣いているように見える。
「泣き虫の目玉焼き」
そう言えば、彼はそう呼んでいたな…。
ぼくが皿をテーブルに運ぼうとした時、声がした。
「俺の目玉焼きはちゃんと焼いてくれよ」
振り返ると友がいた。いつの間に。
「早かったな」
「便りは届いただろ」
「うん、でもついさっきだよ」
「春と風が、今年は遅かったんだな」
友は、ごく自然にテーブルの椅子に腰かけた。背筋をピンと伸ばしたまま静かに座り足を組む。優雅で貴族的な物腰が懐かしかった。
「変わらないな」
「変わったさ。変わらないということはあり得ない」
「ぼくも、さっきそう思ったけど」
「だろ?」
ふふふ、と笑う友の目尻には、たしかに昔はなかった皺が刻まれている。
ぼくは彼の分の目玉焼きを作った。崩さないように気をつけて焼いたのに、テーブルに運んだ時には、彼は先に焼き上がっていた失敗作の目玉焼きを食べてしまっていた。
「なんだよ、今度は成功したのに」
「冷めちまいそうだったからな。それは君が食えよ」
ぼくは出来立ての半熟の目玉焼きを食べた。いつもよりきれいに焼けて美味い。彼がこっちを食べてくれなかったことが残念だった。
ぼくが食べている様子を彼は黙って見ている。でも気づまりではない。友といる感覚をぼくは思い出していた。こういう気楽な…ずっと何十年も共にいるような心地よさ。
沈黙の中を春の風の残り香が漂っている。彼は、つと左手を上げて空中からなにかを掬い取って言った。
「全部読まなかったのか」
「え?」
ぼくはナプキンで口を拭いながら聞き返した。
「まだ残ってたぞ、便りが」
受け取りそびれた風の便りがあったらしい。
「なにが書いてあったんだ?」
彼は目を伏せて自分の手の平を見つめていた。長い睫毛は昔のままだ。でもなにかが変わったような…。でもそれがわかる前に、彼は両手を膝の上にストンと落とし、軽く肩をすくめた。
「まぁいいさ。俺は今ここにいるし」
「いつまでいられるんだい」
「そうだなぁ…」
「ぼくは、いつまでだっていいよ」
彼はぼくを見て、優雅に左の口角を上げた。これでかなりの女の子が泣いたものだ。
「なぁ」
「うん?」
「君は否定しないよな、俺の生き方を」
「たぶんね。今どうしてるかをまだ聞いてないけど」
「聞かなくても、さ」
「信頼しろ、ということ?」
「……そうだ」
ぼくは、彼の空になった皿を見た。パンできれいに拭き取られた皿の上に、ナイフとフォークもきちんと揃えられている。
「わかったよ」
彼はにこっと微笑んだ。そう、これでかなりの女の子が…。
「人に理解されたいとは思わない。でも君にはわかってほしいんだ」
彼はぼくを真っすぐに見つめ、静かにそう言った。
「皿を洗ってくる。それから話を聞くよ」
そう言ってぼくは席を立った。妙な胸苦しさがあり、彼の視線を受け止めきれない。ずっとずっと昔にも、こんな瞬間があった気がする…。
しかしぼくが戻ると、来た時と同じように彼はいつの間にか消えていた。
さよならも言わずに。
数日後の朝、再び失敗した目玉焼きにため息をついていた時、郵便受けにコトンと便りが届いた。今度はきっちりとした本物の封書だ。
警察からだった。
中には、二枚目俳優のブロマイドみたいな写真入りの手配書が入っていた。連絡があれば知らせるようにと書かれている。
優雅な笑みを口元に浮かべた写真の顔は、まちがいなく彼だった。
ぼくは手配書を破り捨てて屑籠に放り込むと、両目とも泣き崩れて見える「泣き虫の目玉焼き」を口の中に押し込んだ。
ぼくはもう、風の便りしか信頼しないのだ。
おわり
© 2024/3/3 ikue.m
小牧幸助さんの『シロクマ文芸部』イベントに参加させていただきました☆
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