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掌編小説【天啓】

お題「かえる」

「天啓」

ドアをノックして部屋に入ると彼は窓辺に佇んでいた。開け放した窓から入る風に白い髪が揺れている。部屋には机と椅子以外なにもなく、真っ白な壁に光が反射し、僕は目を細めた。彼は振り向くと微笑んで手招きした。握手を交わした彼の手はさらりと乾いて温かかった。手を離すと彼は穏やかな声で言った。
「よく来たね」
「お会いできて光栄です」
そう言った自分の声が遠くから聞こえるように感じた。水の中で話しているみたいだ。僕はごくりと唾を飲み込んだ。少し不思議そうな目で僕を見ている彼の目はとてつもなく澄んでいる。幼い子のように。彼はささやくような声で言った。
「私はなにもしていないよ」
「いいえ、僕は…」
僕はあなたを尊敬しています、そう言おうとしたその時、大きな蜂が窓から飛び込んできた。僕は思わず身をかがめたが、彼はゆっくりと歩いて反対側の窓を開けた。蜂はしばらく部屋をぶんぶん飛び回った後、その窓から飛び去っていった。
「行ってしまった」
彼は蜂が去っていった窓を見ながらつぶやくと、僕に視線を戻した。
「今日は君が来て、蜂が来た。にぎやかな日だ。君は私にインタヴューしに来たんだったね。言うべきことはもうなにもないが、一つだけ話してみよう」
彼は窓際に椅子を寄せ、僕にも座るように促した。
「あそこを見てごらん」
細い指がさす方を見ると、茂みの陰から光る水面が見えた。
「ある大雨の降った翌朝だった。雨上がりの庭はとても美しい。私は庭に出て池の睡蓮を眺めていた。するとあるものが目の前に落ちてきたんだ。なんだと思う?」
彼は澄んだ目を細めて僕を見つめた。
「木の実、ですか?」
「いいや」
彼は人差し指を立てて小さく左右に振り、口角をわずかに上げた。魅力的な表情だ。
「かえるだよ。それも大きなおおきな。見たこともないほど大きなかえるだ」
「かえる、ですか」
「そうだ。激しい水しぶきを上げて目の前の池にドボンと落ちた。蓮の葉が大きく揺れた。しかしかえるはすぐに何食わぬ顔で蓮の葉によじ登り、私をじっと見つめた」
彼は僕の目を真っすぐに見つめた。
「私はその時悩んでいた。だからこれは天啓かもしれないと思ったのだ。鳥がくわえたやつがたまたま落ちてきただけかもしれない。でも見たこともないほど大きなかえるが、目の前の池に落ちる確率は限りなく低い。…しかし、私はすぐにはその天啓を受け容れなかった」
彼は言葉を切って窓の外に目をやった。白い髪とシャツの襟が風になびいている。皺の刻まれた端正な横顔は古代の神のようだ。
「そのかえるは今もいるんですか」
僕は身の内に湧き起こった畏怖に耐えられず言葉を発した。
「ああ、私よりも長生きするだろうね」
彼は僕に視線を戻して優しい声で答えたが、僕は聞いたことを後悔した。彼は続けた。
「しばらく経ったある晩、かえるが私の部屋を訪れた。気配がしてドアを開けたらそこにいたんだ。私を迎えに来た使者のように。そして唸るように太く低く鳴いたあと黙って私を見ていた。それが二度目の天啓だ。もう逃げられないと思った」
「それで、あなたは二度目の天啓に従ったのですか…」
「そういうことだ。その後は君もよく知っている。そして今はここに軟禁されている」
彼は細い指で静かに白い髪をかき上げた。僕は胸が波打つのを唇をかんでこらえた。
「君は私に会えて光栄だと言ってくれたが、私がしたことは、さっき蜂のために窓を開けたくらいのことだ」
「いいえ、あなたは…」
僕たちに自由を与えてくれました。そう言いたかったのに胸が詰まって言葉が出てこない。僕は彼と話ができる最後の人間なのに。
「私は役割を終えた。彼らを恨んではいけないよ。明日、処刑台で解放された私の魂はかえるのように空を飛んで、どこかの池に落ちるかもしれないな」
彼はそう言うと本当に楽しそうに声をあげて笑った。
部屋を出る時、彼と再び握手した。明日には冷たくなってしまうであろう温かい手に。ゆっくりと手を離すと、このうえなく澄んだ目をした男は、静かにドアを閉めた。
池の方から、太く低いかえるの鳴き声が聞こえた。

おわり (2021/11 作)

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