SS【雨上がり】#シロクマ文芸部
小牧幸助さんの企画「風薫る」に参加させていただきます☆
お題「風薫る」から始まる物語
【雨上がり】(1642文字)
「風薫る五月って言うけどあんまり匂わないわよねぇ」
と言ったのはトモちゃんだ。
一緒に歩いていた私は、晴れた空に顔を向け、クンクンと空気の匂いを嗅いだ。
「うん、そう言われればそうよねぇ」
トモちゃんは買い物かごを後ろ手に持って、ブラブラと歩いている。私とトモちゃんは公団住宅のお隣さん同士だ。もう四十年来の付き合いだが、それぞれの家族は、一人旅立ち、二人旅立ち……(行先は他県だったり天国だったり)、今は二人とも一人暮らしになった。
水曜日はスーパーの特売日なので、トモちゃんと一緒に歩いて行く。余生を元気に過ごせるように足腰鍛えなくちゃね、と言い交わしながら。
トモちゃんは昨年、十年近く介護した九十歳の母親を見送った。長年の苦労からようやく解放されたと言ってもバチは当たらないだろう。トモちゃんにはお兄さんもいたが、もうずっと前に家を出たまま帰ってこない。
「とうとう一人になっちゃったけど、キミちゃんがいてよかった」
と、トモちゃんは言ってくれる。私の方は三十年前に夫を亡くし、育てた二人の息子も遠く離れた町で働いている。
外から見たら、寂れた公団住宅に残された孤独な老女二人、という感じだろう。確かにその通りなのだけど、見た目ほど寂しいか?と言うと、案外そうでもない。
女は生活するうえで必要なことは全部自分でできる。うまくやりくりすれば、働きに出なくても年金で慎ましく暮らしていける。
仕事もない、世話をする家族もない、面倒見るのは自分だけ。要するに責任がない。この状態はストレスがなくて気楽なのだ。そして女は楽しみを見つけるのも上手い。暮らしに密着して生きてきたから、ちょっとした手仕事みたいなささやかなことでも楽しめる。
「私は女でよかったわー。今日もしあわせ」
私がそう言うと、トモちゃんは振り向いてニヤッと笑った。長い付き合いのトモちゃんは、私がなにを考えているかすぐにわかる。
「今の時代、そういうこと言うと怒られちゃうのよ」
「女とか男とかって?」
「そうそう」
「めんどくさいなぁ」
「男の人でも私たちみたいな人、いるじゃないの」
「誰かいる?」
「三号棟のキムラさんとか」
「一人暮らしのおじいさんね。いつもニコニコしてるわね、そういえば」
九十歳に近いキムラさんは、運動のためと言いながら毎日公共のスペースを掃除してくれている優しいおじいさんだ。うん、あの人はしあわせそう。
「年をとると、性別ってだんだん消えちゃうのかもしれないわね」
と私は言った。うんと年をとると見た目で区別がつかない人もいるし。
「そうね。どっちでもよくなる感じは、ある。私たちと同年代でも、がんばってキレイにしてる人もいるけどね」
と、トモちゃんは言った。
「めんどくさいなぁ」
「ふふ、キミちゃんたら、そればっかり」
私たちは、それぞれの考えに入り込んで、しばらく黙って歩いた。黙っていても気づまりしない友だちっていいものだ。
五月の爽やかな風が、日焼け止めも化粧もやめた素肌をなでていく。清々しさの中で一瞬、少し甘い匂いがした。
「あ、いまなにか匂ったよ。トモちゃん」
「うん、私もちょっと感じた」
「風薫る、だね」
「……でもね、いちばん香りが楽しめるのって雨上がりなのよ」
と、トモちゃんが言う。
「湿度が高い方が、草花から揮発した匂い成分が空気中に留まるんだって。だから、雨が止んで気温が上がるとフワーッと香るのよ」
「へぇ、そうなんだ」
「今度は雨上がりに散歩しようか」
「いいわねぇ」
私はちょっとわくわくしてきて、トモちゃんみたいに後ろ手に買い物かごを持ち、空を見上げた。
雨上がりの方が、いい香りがするのか……。
その時、私はこう思った。
雨上がりって、いま私たちが過ごしてる時間みたい。
ずーっと雨ばかりの人生だったけど、やっと……。
今のしあわせは、芳しい香りみたいな天からの祝福だ。
「ねぇ、トモちゃん。いつ雨が降るかしらね?」
「キミちゃん、子どもみたいねぇ」
そう言って可笑しそうにクスクス笑うトモちゃんの顔も、あどけない少女みたいに輝いている。
おわり
© 2024/5/12 ikue.m